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アメリカ本土初の日系移民、若松コロニー入植から150周年

第2回 カリフォルニアの大地に眠るおけい

故郷会津若松の方角に向けられているおけいの墓(写真:吉田純子)

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アメリカ本土で最初に亡くなった日本人の女の子

新天地開拓の夢破れ、入植者たちは若松コロニー崩壊後、日本に帰る者、同地に残る者、それぞれの道をたどった。

跡地は隣人だった農場主ビアキャンプ家が買い取り、その地に残ったのはシュネルの子の子守りだったおけいと元会津藩士の桜井松之助、大工の増水国之助の3人となった。そしておけいと桜井はビアキャンプ家に雇われた。

おけいは会津若松の大工・伊藤文吉とお菊の長女で、渡米前から近くに住むシュネルの子の子守りをしていたという。わずか17歳で親元を離れ、カリフォルニアにやってきたが、若松コロニーは2年で崩壊。シュネル一家は去り、言葉も違う異国に取り残された。だが彼女を引きとったビアキャンプ家はおけいのことを本当の娘のように可愛がったという。

おけいを題材にした小説「Keiko’s Kimono」の著者でもあるARCのハーブ・タニモトさん(写真:吉田純子)

ドイツ系移民で初代ビアキャンプであるフランシス、ルイーサ・ビアキャンプ夫妻には6人の息子がおり、おけいはその幼い子どもの子守りとなった。

「ビアキャンプ夫妻の子どもたちは全員男の子。かつて女の子がいたが早くに亡くなってしまったようで、おけいを本当の娘のように可愛いがったようです。特に妻のルイーサはおけいが自分の息子の誰かと結婚してくれないかと夢見ていたようです」。

そう語るのは、現在若松コロニーの跡地を管理運営する自然保護を目的に活動するNPO「アメリカン・リバー・コンサーバンシー(ARC)」のハーブ・タニモトさん。タニモトさんは若松コロニーに関する調査、研究を行い、おけいを題材にした小説「Keiko’s Kimono」の著者でもある。「ビアキャンプ家の家族みんながおけいのことを『ジャパニーズ・プリンセス』と呼んでいたようです」

若松コロニー崩壊後、おけいを引きとり我が子のように可愛がったとされる初代ビアキャンプ一家。前列左からフランシス、ルイーサ夫妻。後列2人目が長男のヘンリー氏(ARC提供写真)

ビアキャンプ一家から大切にされていたおけいだったが、1871年夏、突如熱病にかかり3日後に帰らぬ人となってしまった。わずか19歳だった。

アメリカにわたる娘の背中を日本で見送ったであろうおけいの父と母はおそらく、娘の死を知らぬまま生涯を過ごしたとされる。

故郷を離れ、遠いアメリカの地で19歳という若さで亡くなったおけいの死を不憫に思った桜井は、当時墓石は高額だったにもかかわらず、遠いところまで大理石の墓を買いに行き、おけいのために墓を作った。

桜井が作った墓はひびが入り老朽化が激しく、現在ある墓は大理石で新たに作られたレプリカだ。

言い伝えによるとおけいは生前、夕日が照らす小高い丘の上にひとり佇み、時折、会津若松の方角を眺めていたという。故郷を思い、会えぬ父母を思っていたのかもしれない。今その場所に彼女は眠る。

彼女の墓が見つめるその先は、遥か遠くにある故郷会津若松だ。1957年には会津若松におけいの記念碑が建てられ、おけいが眠るカリフォルニアの方角を見つめている。


おけいの墓知れ渡る。日系社会で一大旋風

若くしてアメリカに渡り、19歳という若さでこの世を去ったおけい。その墓は死後、長く知られることはなかった。墓を尋ねる人も、花を手向ける人もなく、1人寂しくカリフォルニアの大地に眠っていた。こうしてアメリカの土に眠る最初の日系移民の女の子となった彼女の存在は忘れ去られたかに思われた。しかし、ある記事がきっかけとなり、彼女の存在は広く日系社会に知れ渡ることとなる。

1913年8月29日付の邦字新聞「新世界」には「コロマ近郊に明治4年(1871年)に建てられた日本人の墓がある」と書かれた記事がある。この記事の中ではおけいの名前こそ出てこないが、かつてそこに日本人一行がおり、茶山造営に失敗したとあることから恐らく若松コロニーのことであろう。1871年はおけいが亡くなった年であり、場所と死亡年はおけいと一致する。しかしまだこの時点ではおけいの存在は広く知られていない。

世に知れ渡ったのはその後、サンフランシスコの邦字新聞「日米新聞(現在は廃刊)」の記者・竹田文治郎(雪城)がおけいの墓の存在を最初に記事にしてからだった。コロマ在住の果樹園経営者・国司為太郎氏の情報のもと、日本人のものとみられる墓の場所に竹田が行き記事にした。この記事によりおけいとその墓の存在が広く日系社会に知れたのだった。

1924年7月12日付の日米新聞に「自分がおけいの墓について書いた『おけいの墓に詣でる記』を書いてから8年がたった」と書かれた記事があり、「自分が『おけい』を覚束ない(おぼつかない)筆ながら世に紹介して以来―」との記述がある。筆者はペンネームとみられる名前を使っているが恐らくこの筆者が竹田ではないかと思われる。だとすると記事が書かれたのは1916年。おけいの存在が世に知れたのは死から半世紀近く経った後だった。

その後、20〜30年代の地元の邦字新聞にはおけいに関する記事が多数掲載され、アメリカ本土で最初に亡くなった女の子の話は日系社会で一大旋風を巻き起こした。おけいの墓参りツアーも頻繁に実施され、おけいの物語を伝えるラジオ番組も制作されたほどである。

浮かび上がるおけい像、目輝かせ思い出語るヘンリー氏

ヘンリー・ビアキャンプ氏(ARC提供写真)

ここにある新聞記事が残されている。そこからアメリカという異国で、現地の家族から大切にされ、わが子のように愛されていたおけいの姿が蘇る。

記者はおけいが眠る墓の敷地の主にインタビューをする。それが初代ビアキャンプ家の長男ヘンリー・ビアキャンプ氏(1851―1934年)だった。彼はおけいがビアキャンプ家に引きとられた時から家族の一員として一緒に過ごした人物だった。記事によるとおけいとは良き友で、おけいのことがとても好きだったようだ。

「純潔な品の良い日本娘であった―」。頬を赤く染めそう話すヘンリー氏はこの時すでに80歳。おけいがビアキャンプ家に引きとられた時、彼は19歳だった。すっかり年老いたヘンリー氏だったが、おけいのことを話す時、彼の目は輝き、その様子を見ていた記者は彼がまるでおけいのことを愛していたかのようだったと書く。(「日米新聞1931年4月23日付」)

ヘンリー氏によると、おけいは西洋の洋服は着ず、いつも色鮮やかな美しい着物を着ていたそうだ。またおけいが息を引きとった場所はヘンリー氏たちが暮らしていたビアキャンプ家の一室だったという。

その時ヘンリー氏はシュネルの遺留品である短刀を保管しており、取材に来る記者に見せていたようだ。またおけい以外にも若松コロニーには「みわ」「おきよ」という女性がいたことも証言している。(「日米新聞1927年9月26日、1931年5月14日付」)

ARCのタニモト氏によると、ジョン・ヴァン・サント著書の「パシフィック・パイオニア」にもヘンリー氏の証言で、「おけいは英語をそんなに話さなかったがとても明るい子で、母から教わった縫い物や料理をすぐに習得し、母からもとても気に入られていた」とあることから、ビアキャンプ家から大切にされていたおけいの人物像が浮かび上がる。

侍だった桜井松之助、2017年に墓発見

おけいが亡くなった1871年までに若松コロニーがあったゴールド・ヒルには桜井松之助と増水国之助の2人が残った。

コロニー崩壊後はビアキャンプ家に仕え、生涯をカリフォルニアで過ごした桜井松之助(ARC提供写真)

会津藩士だった桜井は1834年(推定)に生まれ、カリフォルニアに来た時は35歳だったとされる。

若松コロニー崩壊後、桜井はビアキャンプ家に雇われ一家が運営する農園で働いた。ビアキャンプ家から厚い信頼と尊敬を寄せられていた桜井はおよそ30年、ビアキャンプ家に仕え、農園の責任者にまで昇進。1901年2月25日にこの地で永眠する。

桜井の墓は長らく発見されていなかった。しかし2017年、近郊のコロマにあるパイオニア墓地で見つかる。

ARCのタニモト氏によると言い伝えでは、桜井の墓の側には目印となる木が植えてあり、その木の下に彼は眠っているとされていた。しかし目印となっていた木が倒れてしまい、以来、墓の正確な所在が分からなくなってしまっていたという。

しかし4、5年前、当時95歳だったビアキャンプ家の末裔パール・バトラー氏にARCが話を聞いたところ、彼女が桜井の墓の場所を覚えており、発見するに至った。

2017年に98歳で亡くなったパール氏が生前、ARCに語ったところによると、彼女の父エドルフ・ビアキャンプ氏が桜井の墓の場所を知っていたのだという。桜井はエドルフ氏の父つまりパール氏の祖父にあたるエグバート氏に仕え、その農園で働いていたという。桜井の亡骸はビアキャンプ家が埋葬した。

2017年に桜井が眠るその場所に墓石が設置され、住職を招き供養が行われた。

67歳(推定)で亡くなった桜井は生涯結婚することなく、一人この地で生涯を終えた。侍だった彼は忠誠を誓った主人に生涯仕えたのだった。

桜井松之助の墓(写真:吉田純子)

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*本稿は、「羅府新報」(2019年1月1日)からの転載です。

 

© 2019 Junko Yoshida / Rafu Shimpo

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このシリーズについて

今から150年前の1869年(明治2年)、会津若松(福島県)から22人の移民団が夢と希望を胸に、カリフォルニア州北部にアメリカ本土初の入植地「若松コロニー」を形成した。150年前にアメリカ本土へと海を渡った先駆者たちの勇気と開拓者精神に思いを馳せ、彼らの歴史をここに振り返り、日米両国にいる彼らの末裔の先祖への思いを紹介する。

*「羅府新報」(2019年1月1日)からの転載。