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有色人種で初の空軍士官学校生となったベン・フルタさん

副操縦士として気象観測機に搭乗

「私は人と違うことを気にしていたが、気にしていたのは外見の違いだけだった」 

—ベン・フルタ

第二次世界大戦中、ベン・フルタさんの家族がカリフォルニア州オークランドから強制退去させられ、ポストンの収容所に拘留された時、フルタさんはまだ4歳でした。「断片的な記憶しかありません。ちょっとした出来事のね」とフルタさんは語ります。その記憶には、両腕に包帯を巻いた父の姿がありました。強制収容所の偽装網工場での作業中、化学薬品で火傷を負ったのです。小さな子どもたちを”震え上がらせた”、テントの屋根にはガラガラ蛇がいるという、年上のティーネージャーや若い男の人たちに聞かされた話も覚えています。

フルタ家は強制収容所に1年間収容され、無期限で釈放された後、ミネアポリスに移住しました。フルタさんのお父さんと叔父さんは、中華レストランに販売するもやしの生産を始めました。戦争が終わり、一家はカリフォルニアに戻ることにしましたが、別の叔父さんに会いに途中で立ち寄ったデンバーにそのまま留まることになりました。そしてフルタさんの子供時代の思い出は、ここから本当の意味で始まりました。デンバーではフルタさんも家族も、メソジスト教会と仏教会の2か所を中心とする小規模ながらも活気ある日系コミュニティの一員となりました。フルタ家は、フルタさんが所属していたボーイスカウトのスポンサーだったメソジスト教会に入りました。フルタさんは友人たちとキャンプやスポーツをし、毎年戦没将兵追悼記念日には家族の友人たちと公園でピクニックをして過ごしました。

フルタさんが高校生だった頃、近所で空軍士官学校の設立計画が立ち上がりました。以前から飛行機には興味があり、最終学年になる前に士官学校が願書の募集を開始したので、フルタさんは応募し、合格しました。フルタさんの合格について、お母さんはほとんど感情を表しませんでしたが、お父さんは、「言葉にはしないものの、本当に、たぶん誇りに思っていたと思います」とフルタさんは言います。「父が電報を開封し、合格を伝えられた時は少し腹が立ちました。“何をしたって?”と私は言いましたが、父は飛び跳ねていたんです。両親が私の合格を喜んでくれたのは分かりました。自分の子供たちのちょっとした成功を喜んだんですね」。

1957~58年冬、ローリー空軍基地の仮設校舎で士官学校の制服を着たフルタ氏

このことを証明できる記録が残っているわけではないので、見たところそうだったとフルタさんはすぐに訂正していますが、空軍士官学校に入学した1956年、開校2年目でフルタさんは有色人種では初の士官候補生になりました。「自分は人と違うと思っていましたが、それは外見だけでした。私の記憶ではクラスの一員として間違いなく受け入れられていたし、人と“違う”とか、外見が違うとか、民族が違うなどと言う人は誰もいませんでした」とフルタさん。最近同窓会でこの話を旧友にしたところ、「ただ単純に、君のことを仲間の一人だと思っていた」と言われ、少なくとも仲間の間では受け入れられていたのだと確信したそうです。「同時に、自分がみんなと違うことも再確認しましたね。なぜって、明らかなことですが、過去の同窓会でこんな冗談を言っていたんです。”僕だけは名札がいらないね”って。わかるでしょ?

士官学校では、軍事トレーニングと一般講義の厳格な生活を送りました。特に一年次には、クラスメートも自分も従わなければならないたくさんの規則がありました。上級生が通路を通る時は壁際に立ち、道を空けなければなりませんでした。食事中は前を向いて不動の姿勢で真っすぐ座り、ベッドは常に整えられた状態に保ち、服はきっちり揃えてハンガーにかけました。「閣僚や空軍幹部の名前、空軍史といった必ず覚えなければならない知識があり、即答することを要求されました」。何か一つでもできなければ減点となり、点数によっては“外出禁止”、または正式名称を“ウオーキング・ツアー”という、ライフルを担いで中庭を行ったり来たり一時間行進する罰が課されました。一方で士官候補生は、サッカーの試合に行ったり、地元の女子大学生とダンスに出かけることもありました。フルタさんは言葉を選びながら、「つまり、いろんな楽しみ方を見つけていたんです」と言うので、詳しく話すよう何度も促すと、“士官学校以外の場所で”パーティーをしていたと教えてくれました。

1960年6月、空軍士官学校卒業式にて

卒業後、フルタさんはフロリダ州とアリゾナ州で空軍飛行士訓練に参加し、1962年にグアムの気象観測部隊に配属されました。ハリケーンや台風といった荒天観測のパトロールが日常業務でした。長距離爆撃機(“第二次大戦中のB-29から派生した機体”)を気候観測機に改造したWB-50を操縦しました。パイロット2名、航空技師、気象観測士、技師補佐、航空無線士を含む乗務員10人が搭乗しました。危険なパトロールはほとんどありませんでしたが、1962年11月にグアムを通過したカテゴリー5の台風カレンは例外で、今もグアム史上最も破壊的な台風の一つとして記録されています。

カレンの観測は、午前8時に台風の目に突入するのに間に合うよう離陸し、その後周辺を飛行し、午後4時ごろ再び台風の目に突入し、基地に戻るというものでした。台風の目に到達するには、周辺を囲んでいる最も激しい高気圧域、アイウォール(積乱雲の壁)を突破しなければなりませんでした。「アイウォールに挑むには、垂直に突入するのが一番です。そうすればすぐに突破できます。アイウォールの中にいるのはほんの数秒で、台風の目の中に入ればほぼ確実に晴れていて、空が見えます。その中を飛行し、観測士が必要な観測を行います。その後、準備を整えて再び垂直にアイウォールを突破し、脱出します」。一行は(“当然ながら”)無事でした。

15ヵ月間のグアムでの任務を経て、フルタさんは東京都福生市の横田基地に配属されました。日本に行くまでに一度に一番大勢の日本人(日系人)を見たのは、ロサンゼルスの二世ウィークでした。その時でさえデンバーと比較して、「驚いた、こんなに日本人がいる」と思いました。日本へ行き、みんなが自分と似ているという経験は初めてでしたが、フルタさんがアメリカ人だということは語学力ですぐにバレたといいます。フルタさんは、新宿駅でのあるできごとを覚えていました。「駅を出ようと通路を歩いていた時、肩をポンと叩かれ、振り向くと女性がいました。日本語で話しかけられたので、“日本語はわからない”と片言の日本語で伝えると、“日本人に見えるのに”と驚いた顔をされました」。

日本からジョージア州での短期任務中、航空機を点検している様子

フルタさんは、日本で妻のヒデコさんと出会い、結婚しました。遠縁のヒデコさんは英語を勉強していたこともあり、フルタさんに会いに来ていました。1965年、フルタさんはベトナム戦争が激化する前に空軍を除隊しました。しかしその後、除隊はより困難になりました。「私が除隊した半年から8か月後、軍は基本的に我々の世代に、“除隊は不可能”と告げたのです」。空軍でのキャリアを選択するという道もあったとフルタさんは言いますが、学校に戻り教員になりたいという思いが、何より除隊を後押ししました。帰国後、フルタさんはカリフォルニア大学バークレー校で教員免許を取得し、南カリフォルニアに引っ越すまでオークランド統一学区で教鞭をとりました。両親は、フルタさんが士官学校時代に南カリフォルニアに引っ越していました。

フルタさんは、教職を退いた今も全米日系人博物館のガイドとして子供たちの教育を続けています。博物館ツアーでのフルタさんの授業は、空軍士官学校のそれとは異なり、多様性に富んでいます。「とりわけこの場所で、こうしたツアーに参加しているのは移民との密接なつながりがある人たちです。だから日系移民や収容所の話を聞くことで、自分と関係のある移民の歴史をよく理解し、それにまつわる問題や疑問について考えるようになってほしいと思うのです」。

 

© 2018 Mia Nakaji Monnier

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