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シアトル・宇和島屋物語 ~ The Uwajimaya Story

第12回 タコマでの商売

シアトルの南50キロほどのところに位置する海沿いのタコマは、貿易の拠点として、工業都市として早くから発展してきた。1907年には人口は9万人に達していた。森口富士松が店を開いたのは1928年だが、日本人の数は20年代が最も多くなり、タコマ市内に約1600人が在留していたといわれる。

さかのぼれば、日本人が初めてタコマに足跡を残したのは1885年とされ、98年4月には熊本一二三という人物が会社を設立し、ノーザン・パシフィック鉄道に日本人工夫を斡旋、800人の労働者がその後就労した。また、タコマ近辺の製材業にも従事する日本人労働者が増えたほか、周辺地域で野菜や果実の栽培も日本人によって盛んにおこなわれるようになった。

なかでもタコマに隣接するファイフのまちは日本人農家が多く、とくに愛媛県出身者が多かったことから「愛媛村」とも呼ばれた。これには同県西宇和郡向灘(現八幡浜市)出身でアメリカで成功した西井久八の功績が大きい。同郷から渡航希望者を呼び寄せて援助を促した。


日本への帰国を思いながら 

タコマ市内では、日本人町が誕生し、レストランやホテル、理髪店、洗濯屋などさまざまな店舗やビルが建ち並び活況を呈していった。そのなかのブロードウェイ通りに宇和島屋がオープンした。日本人が増えれば日本食・食材への需要は増す。富士松の店では小売りをするのと同時に、周辺の日本人の胃袋を満たすためにさつま揚げなどを作っては売り続けた。

1933(昭和8)年1月、富士松は蔦川貞子と結婚。その年の末には二人の間に長男權三(Kenzo)が誕生、35年には長女スワ子(Suwako)が、36年には二男富雄(Tomio)が生まれた。忙しい生活がつづくなか、37年には、同じブロードウェイ通りで少し離れたところに店舗を移すと、39年には三男彰(アキラ)が生まれた。

タコマの日本人町の地図(「北米百年桜=伊藤一男著、北米百年桜実行委員会、1969年」)より。

当時の日本人町は、海や駅にも近いタコマ市街のある区域を占めていた。町は碁盤の目のようになっていて、おもに南北に4、5ブロック、東西に5,6ブロックの範囲に固まっていたようだ。ホテルや洗濯屋や日系の新聞社、カフェ、レストランなど多くの店舗やオフィスが建ち並んでおり、そのなかのブロードウェイ通りと15番街の角近くが宇和島屋だった。

宇和島屋という名前は、若いころ修業した愛媛の宇和島から由来しているが、この名にしたのはそれだけの理由ではなかったようだ。というのは、「森口屋」とか「森口商店」というように、自分の苗字を店名にすることも考えたが、富士松は、商売に失敗したとき、また、もし店を譲渡するようなときに、森口の名がついていたらまずいと考えたという。

半ば冗談だったかもしれないが、いずれにしても日本に帰るときのことを念頭に入れていたようだ。


鮮魚を仕入れてフィッシュケーキ作り

当時の店舗や商売の仕方について、二男のトミオの記憶にそってまとめてみると——。

店はビルの中にあって、間口は6メートルほど、奥行きは18メートルくらいで、中二階があった。数ブロック離れたところに住居は別に構えていたが、家族はお店で食事をして寝泊りもしていた。

アメリカでフィッシュ・ケーキ(fishcake)といわれた、カマボコやさつま揚げといったものを、この店で富士松が毎日作っていた。使った魚のほとんどは海からあがったもので、魚問屋から仕入れた。一番いいとされていた魚は、Lingcod(キンムツ)。これをグラインダーで粉砕して塩と少々の砂糖と小麦粉、でんぷんなどを加え練り合わせた。

カマボコを作るにはこれをすり身にして型枠に入れたが、さつま揚げの場合はゴボウなどの野菜をまぜた。卵とすり身を混ぜ合わせて作ったものもあった(伊達巻だと思われる)が、じゃこ天をつくっていたかどうかははっきりしない。

当時は鮮魚の値段も安かったが、のちに高値になってくると冷凍ものを原料に使うようになり、さらに後年は冷凍の“加工すり身”を使うようにもなった。

カマボコ、さつま揚げなどは自家製だが、そのほかに味噌やお米、パン、牛乳やレタス、トマト、ニンジン、ゴボウ、菜っ葉など野菜を販売していた。タバコやコカ・コーラなども置いていた。お客のほとんどは日本人・日系人だった。

森口家—富士松、貞子夫妻と子供たち(左からアキラ、トミオ、スワコ、ケンゾウ)1940年、タコマの店の前で。(Uwajimaya、北米報知提供)  


宇和島屋

富士松、貞子たちは、当時の普通のアメリカ人の服装をしていたが、貞子はいつもきれいに見繕っていた。たまに、同胞の結婚式や葬式には、富士松はネクタイをしめスーツ姿で出席した。富士松は子供たちには日本語で話していた。

「父は英語が得意じゃなかったし、また、日本にいつか家族を連れて帰ろうと思っていたからだと思います」と、トミオは言う。一方、母の貞子は、日本語まじりの英語で子供たちに話をしていた。

地域には日本のお寺(タコマ仏教会)もあり、子供たちは同じ日系の2世の友達とお寺が主催するピクニックや催事にでかけていった。コミュニティーとは強いつながりがあったという。

(敬称略)

参考:

アメリカ人総合地域研究第5号2015 年3月28「論文」日本人移民の「コスモポリタニズム」村川 庸子敬愛大学国際学部教授。    

 

© 2018 Ryusuke Kawai

Fujimatsu Moriguchi grocery business Moriguchi Family tacoma uwajimaya Washington

このシリーズについて

アメリカ・ワシントン州シアトルを拠点に店舗を展開、いまや知らない人はいない食品スーパーマーケットの「Uwajimaya(宇和島屋)」。1928(昭和3)年に家族経営の小さな店としてはじまり2018年には創業90周年を迎える。かつてあった多くの日系の商店が時代とともに姿を消してきたなかで、モリグチ・ファミリーの結束によって継続、発展してきたその歴史と秘訣を探る。

*毎月第2・4金曜日に掲載予定です。