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音楽でNIKKEIをつなぐ 〜 仲宗根ゆうこさん

等身大の日系世代の世界 

“ラテンと沖縄の融合で世界を元気に!”というコンセプトで日系ミュージシャンが参加する音楽イベントがある。その名はOKINAWA LATINA(オキナワラティーナ)。発起人は、ラテンロックバンド、ディアマンテスのボーカル、ペルー日系三世、アルベルト城間さん。そして2016年よりOKINAWA LATINAのプロデューサーを務める、仲宗根ゆうこさんに活動の経緯、また、自身と日系との関わりについて聞いた。

ゆうこさんがOKINAWA LATINAに携わるきっかけとなったのは、2015年に旗揚げしたばかりのアルベルトさんから企画書の作成を依頼されたこと。翌年からは代表とプロデューサーを兼任する。本イベント第二回目は、世界中のウチナーンチュが5年に一度、沖縄に集結する“世界のウチナーンチュ大会”で 沖縄県連携事業として開催された。その際、スペシャルゲストとして招かれたのがアルゼンチン在住、日系三世のグース外間さん。

「初めて彼の歌を聴いた時、ショッキングでした」というゆうこさんは、沖縄県北中城村在住で、2015年に同村の移住者子弟研修制度で三カ月滞在中だったグースさんと交流があり、スペイン語の新譜『Entre Claveles(カーネーションの中で)』を紹介された。歌詞のモチーフは、かつて移民船でアルゼンチンへ渡った祖父母の生きた軌跡。新天地でカーネーションを栽培し、苦労を重ねながら子や孫を育てたという祖父母への畏敬の念が込められている。これまでの移民をテーマにした楽曲といえば、悲哀や望郷の想いを歌い上げるものが多かったが、グースさんの歌は違っていた。移民の歌詞を都会的なメロディにのせ、また、悲しみに終わらず、まだ見ぬ祖父母の故郷への期待に満ちていたのだ。

現在、グースさんのプロデュースを手掛けているゆうこさんは、三世、四世の日系ミュージシャンとの関わりの中で、共通点を発見した。「彼らは、若者らしく生まれた国のカルチャーを存分に吸い込みながらも、ルーツである沖縄や日本への想いが歌の中で、爽やかに融合させている。彼らの歌から等身大の若い日系世代の世界が見えてきます。しかもその歌は、沖縄にも東京にも存在しない。新しいジャンルだと思いました」と語る。

そんなゆうこさんが今向かっているのは、この若い日系人の力を世の中に伝えること。

「日本でもアルゼンチンでもグースのワンマンライブでは、私もステージに上がって“日系人の持つ日本人にはない素晴らしさ”を話しています。日本人も当の日系人もまだ、そのことに気づいていないと思うから。もし、日本人が目覚めたら、それこそ日本人の誇りにもつながるはずです。昨年、ノーベル文学賞を受賞したイシグロ・カズオさんは長崎出身の日系イギリス人。彼の作品は日本人の血を引いてなければ生まれなかったと言われています。多くのマスコミもこのニュースを取り上げました。彼の活躍が“日本人の誇り”となったからでしょう」。

プロデュースを担当するグース外間のステージで、日系人の素晴らしさを自ら伝えるゆうこさん

ルーツを同じくし、異なる文化で育った日本人と日系人が互いを認め合うことができれば、もっと優しい国作りにつながり、手を取り合えば最強の作品ができると考える。「今後は世界の日系ミュージシャンに呼びかけ、東京での音楽祭開催、また日系人の目線で音楽劇の創作を検討しています」と、“日系”という言葉に力が入る。


ペルーから見た沖縄、日本

そんなゆうこさんは沖縄生まれ。祖父母はペルー移民一世。幼い頃から移民先の親戚から送られて来た珍しい品々に囲まれて育った。そして、今でも鮮明によみがえるのがペルーの祖父母が35年ぶりに来日した際の那覇空港での光景。ゆうこさん6歳の時。祖父母が空港のロビーに降り立つと、出迎えた親戚一同が一斉にカチャーシー(喜びを表現する沖縄の踊り)を踊り出し、指笛が轟いた。「つられて祖父母も踊り、最後は熱いハグと涙。今、思うと、“絆”というものの強烈な表現を初めて見た瞬間だった気がします」。

ゆうこさんは、18年間勤めた東京でのテレビ番組制作の仕事を辞めたのを機に、ペルーへの旅を思い立った。ペルーの親戚は一つ屋根の下に10人が暮らしていた。会ったことのある人は3人。しかもほとんど日本語が話せない家族の中に、”血の繋がり”だけを盾に、3カ月の予定で飛び込んだ。しかし、スペイン語の壁ははるか高く、上達するまでは本当のペルーやルーツを知ることはできないと、帰国を先延ばしにした。

やがて、ペルー人は料理の話題になると会話が弾むことに気づき、料理を介してスペイン語上達の鍵を模索した。「料理をたくさん教えてもらいました。そして、追求すればするほど、ペルー料理は魅力に溢れていました。それに、“ペルー料理は世界一美味しい”と、豪語する国民性に圧倒されましたね」。後に、“ペルー料理探究家”という肩書きを背負い、ペルーという国の片鱗を見つめるようになったという。

料理を通して、その後を左右する出会いにも恵まれた。相手はシェフでありながら、料理で国に革命を起こした人物、ガストン・アクリオ。2008年頃から、彼は世界にペルー料理ブームを巻き起こし、テロやインフレに疲弊し、自国に誇りを持てなかった国民に誇りを取り戻させた。また、貧困層の若者たちのために一流の料理が学べるアカデミーを設立し、海外に送り出した。実際にガストンに何度か取材もしたゆうこさんは、料理で国を変えるという彼の気迫を肌で感じ、「本気の戦略であれば、国をも動かす」ことを実感したと話す。また、“ペルー料理”の世界から日系人やペルーで生きる日本人の“生き抜く力”にも影響を受けた。

同時に、ゆうこさんは、ペルーから日本や沖縄を見ることで、次のようにも思ったという。「スペイン語で日本のことを”ハポン”、沖縄系の人々のことを"オキナウェンセ”と言いますが、日系人社会では毎日のように”ハポン”、”オキナウェンセ”という言葉が飛び交っています。でも、私はペルーに来る前、年にどのくらいペルーの親戚のことを思い出しただろうか? おそらく年に1回。決まって元旦にかかってくる、ペルーからの国際電話の時だけでしょうね。日系人は、いつも心のどこかで日本や沖縄を意識して生きているのだと思います」。そのことが心に引っかかり、ペルーに止まり、もっと日系の世界を知りたいと思うようになったそうです。

しかし、そんな矢先、2014年、沖縄の両親が同時期に入院することになり、帰国を余儀なくされた。ペルー滞在は、すでに4年が経過していた。

現在、日系人の音楽を世に届ける音楽・イベントのプロデューサーを生業としているゆうこさんは、日系人が日本にもたらした恩恵を忘れてはいけないと話す。

「今、”移民”の歴史を知らない人が多いと思いますが、私たちが平穏に暮らせるのも、日本が苦しい時代、国策の”移民制度”や、その後の呼び寄せで海を渡った人々のおかげだと思っています。特に終戦直後の沖縄の経済の60%以上は、海外移民の方々の送金だったそうです。私は音楽の力を信じているので、日系人の音楽を扉に、多くのことが伝えられると思っています」。

世界の日系社会の中心は三世、四世の時代。今後、五世、六世の時代になると日本への想いはますます遠くなる。今、日系と日本をつなぐ最後のチャンスだとゆうこさんは考えている。 そして、NIKKEIという言葉が世界に浸透することを願っている。

 

© 2018 Keiko Fukuda

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