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シアトル・宇和島屋物語 ~ The Uwajimaya Story

第7回 日本・愛媛・西宇和郡

明治時代になって日本が開国すると、堰を切ったように日本人の海外への渡航がはじまる。勉学のため、生活のため、あるいは一獲千金を夢見てアメリカ、カナダ、ブラジル、メキシコ、ペルー、オーストラリア、東南アジアなど、さまざまな国へと人々は出て行った。

アメリカ、ハワイへの渡航をみると、江戸時代末期に漂流の果てなどに偶然アメリカで暮らすことになった例としては、有名なジョン・万次郎やジョセフ彦蔵がいる。明治元年(1868年)にはハワイのサトウキビ農場で働くために153人が集団で移住した。移民史の世界では「元年者」と言われる人たちだ。

彼らは、維新の混乱期に明治政府の許可を待たずに出国したが、同じく、混乱に紛れるようにして集団移民として異例の形でアメリカ本土に渡った人たちがいる。戊辰戦争後の1869年に、敗れた会津藩の軍事顧問などの職にあったプロシア人が、藩の人間を十数人(数十人ともいわれる)を引き連れてカリフォルニア州のサクラメントの奥に植民した。

ところで、ハワイへの移民は、労働力を必要とするハワイ政府と日本との取り決めで、「官約移民」として行われる。その後はアメリカ、ハワイへは移民をあっせんする民間の会社が間に入り、契約移民という形がとられた。しかし、これについては人道上問題があるとしてアメリカ側から非難され表向きには廃止される。


移民ブームがおきるなかで

これにかわって登場するのが、個人が移民取り扱い人(会社など)を通して移住する方法だ。渡航する者たちは、ほとんどが労働を目的とした出稼ぎ的な移住で、これが「移民」と呼ばれた実態である。その数はハワイについてみると、開国後から1930(大正19)年までの間に、約230,000人、アメリカには107,000人余にのぼる。

アメリカにわたったものは、農業、漁業、林業、それに鉄道や鉱山関係の仕事などに従事したほか、先に移住している同胞の開いた商店やホテルなどでも働くようになる。日本で一生かかって返すような額の借金を、アメリカで働いて数年で返済してしまったという話や、帰国してアメリカ風の家を建てたりと、移住した者の成功譚が故郷で広まりと「次はおれも」とばかりに、親せきや知人を頼って渡米した。

こうした移民熱を、出版物も煽った。アメリカでの生活の仕方についても具体的に指南した本や雑誌が出版されたり、海外移民の利得と意義を説く言説も広まったりし、一種の移民ブームが巻き起こった。


西日本の移民は多いが

こうした動きは全国各地に起きたが、地域によってかなりの差がある。海外への移民全体の数を都道府県別にみると、西日本からが圧倒的に多く、広島、沖縄、熊本、福岡、山口などが目立つ。それ以外では福島、北海道、新潟などが多い。

このなかで、宇和島屋を立ち上げた森口富士松の故郷である愛媛県は決して多くの移民を送り出している県ではなかった。しかし、県内を地域別にみると、富士松の出身の当時の西宇和郡は、県内他地域と比べてその移民熱がきわめて高かったようだ。

打瀬船の模型(八幡浜市HPから)

西宇和郡からのかつての海外渡航については、打瀬船という小さな船にのって仲間とともに太平洋を渡ってアメリカに入国するという大冒険にも似た「密航」が、ある時期盛んにおこなわれたことが知られている。西宇和郡のほとんどは現在の八幡浜市になっているが、同市の市役所内にはこうした歴史をとどめておこうとこの打瀬船の模型が展示されている。

打瀬船で海を渡った事実を軸に、この地域の移民の歴史を早くから調査、研究している村川庸子・敬愛大学教授の書いた「アメリカの風が吹いた村 打瀬船物語」(愛媛県文化振興財団、1987年)に興味深いデータが紹介されている。

「愛媛県統計書」をもとに作成された、明治37(1904)年の愛媛県内の「都市別海外旅行人数」によると、当時の県内人口は松山市ほか12の郡で合計1,032,096人で、これを市・郡別に多い順に見ると、越智郡(現在の今治市ほか)が150,704人、温泉郡(現在の松山市の一部)が145,615人、北宇和郡(現在の宇和島市の大部分)が121,767人となっている。

これに対して西宇和郡の人口は92,235人だ。しかし、海外旅行者の数は、越智郡134人、温泉郡119人、北宇和郡71人なのに対し、西宇和郡は478人にも上っている。人口1万人あたりでみると、約51,8人と2位の東宇和郡15.7人を大きく引き離し断然多いのがわかる。

森口富士松の故郷は明治時代から海外渡航・移民熱が非常に高かったことが想像できる。その実態はどのようなものだったのか、次回で具体的に見ていきたい。

(敬称略)

 

© 2018 Ryusuke Kawai

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このシリーズについて

アメリカ・ワシントン州シアトルを拠点に店舗を展開、いまや知らない人はいない食品スーパーマーケットの「Uwajimaya(宇和島屋)」。1928(昭和3)年に家族経営の小さな店としてはじまり2018年には創業90周年を迎える。かつてあった多くの日系の商店が時代とともに姿を消してきたなかで、モリグチ・ファミリーの結束によって継続、発展してきたその歴史と秘訣を探る。

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