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教育者でありコミュニティ活動家の日系三世 — キティ・サンキさん

貧困地区の学校転勤が教師としての転機

2016年まで会頭を務めた南加日系商工会議所のオフィスでのキティさん

キティ・サンキさん。日系アメリカ人3世。平成29年(2017年)秋の叙勲で、旭日双光章を受章した。私とキティさんには共通の知り合いがいる。よく噂を聞いていたが、これを機会になぜ彼女がそこまでコミュニティ活動に熱心なのか、日系人と私のような新一世との共存についてどのような考えを持っているのか、ぜひ聞いてみたいと思った。私たちは12月のある日、リトルトーキョーの南加日系商工会議所で会った。

キティさんは、沖縄がアメリカに統治されていた時代に在沖縄米高等弁務官の語学副官を務めたジョージ・サンキさんの長女として東京に生まれた。その後、小学校時代と高校時代を沖縄の米軍基地内で過ごし、カリフォルニア大学ロサンゼルス校に進学した。卒業後、彼女が選んだ職業は教師だった。そして、転機は、1980年代に白人がマジョリティだったサンフェルナンドバレーの学校から、貧困層が多いサウスセントラル地区の小学校に赴任した時に訪れた。「子どもたちは非常に悲惨な状況下に置かれていました。朝、学校に来た時にはお腹を空かせていたんです。朝食がポテトチップスだという子どももいました。子どもが育つには極めて劣悪な環境でしたね。最初の頃の衝撃を今も忘れられません」。5年間、その小学校で教鞭を執ったことで、キティさんは教師として以外にも、彼らにできることはないかと模索した。そして、自身が属していた団体を通じて、貧困層の子供たちが将来大学に進学できるように、奨学金を集めるファンドレーザーを企画し、実行した。

メンターは祖父仲村権五郎弁護士

「たとえ、フルタイムの仕事があっても、コミュニティの活動に取り組むことはできました」と語るキティさん。しかし、言葉で言うのは簡単だが、実際に彼女が関与した組織は数多い。第二次大戦中の日系人強制収容に対する米政府からの謝罪を求める活動を始め、日系アメリカ人市民同盟ダウンタウンロサンゼルス支部、日系オプティミスト・クラブ、そして2016年まで会頭を務めた南加日系商工会議所、さらには南加日系婦人会にも携わってきた。そのモチベーションは何かと聞くと「新しい世代に何をもたらすことができるかを常に考えているから」と答えた。根っからの教育者なのだろう。キティさんにとってのメンターとは? その質問には、想像していた人物の名前が挙がった。人権派弁護士として活躍した仲村権五郎である。沖縄県出身の彼はハワイ経由でロサンゼルスに渡り、1920年代に法律事務所を開設して、日本人移民のために奔走した。その弁護士は、キティさんの母方の祖父である。

「祖父は1965年に亡くなりました。私は沖縄の高校を卒業した後、UCLAに入学するためにロサンゼルスに戻ってきました。それが65年の7月。祖父が亡くなったのが9月。その短い間、祖父からできるだけたくさんの経験を聞きたいと思った私は一緒に過ごすようにしました」。しかし、強制収容所に送り込まれ、日系人のリーダーとして活動した祖父の波乱万丈の人生を、その2カ月で聞き尽くすことは不可能だったにちがいない。「実は、母は戦時中の強制収容所の話を私にしたことがありませんでした。後になって、母の(理不尽な処遇に対する)怒りが強すぎて口にすることができなかったということを知りました」


受勲に驚き「橋渡しを務めただけ」

2009年に教職を引退した後、キティさんはコミュニティに向けてよりアクティブに活動を展開、多くのアメリカ人、日本人と交流してきた。私は彼女に聞きたかった、素朴な疑問をぶつけた。「日本生まれの新一世と日系アメリカ人の間には溝があるように感じられます。言葉の違い、文化の違い、また過去の体験の違いもあるでしょう。でも同じルーツを持つ人同士として、もっとうまくいくようになるにはどうしたらいいでしょう?」。それに対してキティさんは「鍵は対話です」と即答した。「最初は少人数でいいでしょう。それから6人、8人と増えていけばいいのです。まず相手を知ることです。相手を知らないから誤解が起こるのです。互いに違うということを知ることが重要。そして考えを共有するのです。それが正しい必要はないし、唯一の考えである必要もありません」

時間の多くをコミュニティ活動に捧げている印象があるが、趣味は何かを聞くと「読書」と答えた後で「お菓子を焼くこと」とも。さらに健康管理のために、毎日2万歩のウォーキングを欠かさない。「自宅はフリーウェイのジャンクションに近いので、とても便利。すぐに車でいろんな人に会いに出かけられます」

最後に、日本政府からの受勲について改めてお祝いを伝えると、「実はまったく予期していなかったんです」と言う。「とても驚いて、名誉に感じました。家族もコミュニティの皆さんも祝福してくれてうれしかったです。でも、私が受勲できたのは、私の後ろにたくさんの人々の貢献があったからです。私は、それぞれの橋渡しを務めたに過ぎません」。思わず「キティさん、それはとても謙虚な姿勢ですね」と感想を漏らすと、彼女はすぐさま「いいえ、それが本当のことなんですよ」と、教師が生徒に指摘するように、笑顔でそう言った。

 

© 2018 Keiko Fukuda

community Kitty Sanki lawyer teacher