ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2018/04/24/

第1回 第二次世界大戦終結までの日系カナダ人聖公会信者たちの通史

ブリティッシュ・コロンビア州バンクーバーの日本人の昇天教会(バジル・イズミ所蔵)

キリスト教はバンクーバーの初期の日系移民コミュニティーに瞬く間に広まった。彼らの間で最初に見られる教会活動は、1892年に合衆国からきたマツタロウ・オカモトという巡回布教師によって行われた。3年後、オカモトはゴロウ・カブラギに引き継ぎを行い、カブラギはその後もメソジスト教会へ所属した。信仰の深さや献身の度合いはさまざまであるものの1、キリスト教は急速に広まり、多くの日系カナダ人が自身のことをクリスチャンと認識するようになったようだ。メソジスト派は、のちにカナダ合同教会に合併されるが、聖公会をしのいで日本人移民コミュニティーで最大のキリスト教会派となる2

カナダの聖公会は、メソジスト派よりも約10年遅れて日系カナダ人の間で活動を始めたようである。ブリティッシュ・コロンビア州への日本人の流入に対して、白人の英国人メンバーたちの間では相反する感情があったが、日本人初の聖十字教会が1903年にセント・ジェイムス教会に設立された。二つ目の教会は1909年にフェアビュー地区につくられ、主に増えつつあった日本人の女性と子供たちに対しての奉仕を行なった。聖十字教会は徐々に大きくなり、ほどなく規模を拡大するためのスペースが必要になった。1914年、F・W・カシリス・ケネディは、かつて日本で伝道師をしていたが、バンクーバーにきて日系カナダ人の教会を手伝うようになった。

 日系移民に対する聖公会の矛盾する態度は続いた。実際、聖公会の少数派のリーダーたちが日系移民のために声をあげる一方で、バンクーバーの反日運動で名前の通った指導者たちの一部が、偶然にも聖公会の主要なメンバーでもあった。日本人に対する布教活動は支援されてはいたが、白人の聖公会の中で歓迎されているわけではなかった3。しかし日本人に対する布教活動は拡大し続けた。州の東洋人に対する伝道委員会(PBMO - Provincial Board of Missions to Orientals)が1915年に設立され、1927年にはブリティッシュ・コロンビア州に日本人向けの教会が5つあり、それらは全てケネディの管轄下にあった。

ケネディは、体は弱かったがはっきりものを言う人で、日本人や他の東洋系移民にとって尊敬すべき擁護者であった。彼は1930年に亡くなり、1931年に同じく日本で宣教師をしていたウイリアム・ゲイルが跡を引き継いだ。ゲイルはケネディほど雄弁ではなかったが、精力的に日系人コミュニティーに奉仕し、彼の指揮下で拡大は続いた。1941年にはバンクーバーエリアにおける日系カナダ人聖公会信者はおよそ1500人になった。それでも教区(ニュー・ウエストミンスター)は、彼らに対して相反する態度を取り続けた。 

皮肉なことに、バンクーバーでの反日運動の最も雄弁なリーダーの一人が市議会議員のハルフォード・ウィルソンで、上級委員会とPBMOのメンバーとして聖公会ではとても有名なリーダーであった、彼の父親はセント・ミッチェルズ聖公会のかつての司祭で、彼もまた日本人や他のアジア人移民を敵視する側のリーダーであった。幸いなことに、彼の反日運動は、他のPBMOのメンバーから全く反対を受けることなく行われることはなかった。 

カナダが日本に対して宣戦布告をし、西海岸から日系カナダ人を強制的に移動させる計画を発表したあと、PBMOはそれを非難しない一方で、政府に対して強制移動させられた日系カナダ人たちを公正に扱い、キリスト教の伝道師たちが自由に手を差し伸べることを許可するよう促した4。これは聖公会教区の首脳部の、より曖昧でほとんど沈黙とも取れる態度とはいくらか対照的であった。 

強制収容が始まると、西海岸で日本人移民と共に活動していた聖公会の伝道師や教師たちの多くは、収容所での困難な生活に向かう彼らと自発的に行動を共にした。

聖公会は、ローマ・カトリック教会、合同教会、救世軍や仏教会と協力し、それぞれに収容所を割り当てた。聖公会はスローカン・エリアの収容所の担当になった。そこでは伝道師や教師たちが、厳しい条件のもとで直ちに幼稚園や高校の設置を含む様々な教会活動に取り掛かった5。1945年の、戦争が終わりに近づきつつあり、政府が日系カナダ人をカナダ東部へ強制移動させる政策を進めているときでさえ、聖公会の伝道師たちたちは彼らに従い奉仕し続けた6

スローカン・エリアのベイファームにある収容所センターでの日本人聖公会信者の集まり(ジョイ・コガワ所蔵)

第2回 >>

注釈:

1. ロイは(2016/2017、106)、様々な教会の奉仕活動計画を利用していた人々の多くは、“キリスト教の教えよりも社会活動”により興味があったと言っている。しかし、本当の意味での変換と、本稿の主人公であるバジル・イズミの両親、母方の祖父母を含む献身的で活動的な支持者の核となる人々の増大があったのは明らかである。

2. この主題に関する先の論文の要約と同じく、メソジスト派の初期の移民(特に日系移民)に対する態度と布教の歴史に関するより詳細な記述については、ヨシダ(1992)を参照。聖公会と日系カナダ人の大要はナカヤマによる英語版(1966, 26-48)、オガワによる日本語版(2011, 1-17)を参照。

3. ナカヤマ、5:「一方では、役人の一部や日本人に奉仕する教会の人びとに対する大きな不安があった。しかし他方では、初めは彼らと交わることに対する抵抗もあった。日本人のための教会は保証されるべきではあるが、西洋人のものと思われる一般的な地域社会の教会の中ではなかった。」

4. ロイからの引用、116

5. 州政府は小学校以外の教育を収容所内で提供することを拒否した。

6. 聖公会の伝道師や教師が、収容所や退去の期間に日系カナダ人に対してどのように奉仕したのかに関するより詳細な記述は、ナカヤマ(特に11−15)とオガワ7―13参照

 

© 2018 Stanley Kirk

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このシリーズについて

この連載では、第二次世界大戦の少し前、バンクーバーの日系カナダ人聖公会の家庭に生まれたバジル・タダシ・イズミのライフヒストリーを紹介する。バジルは6歳の時、家族と共にバンクーバーでの生活を追われ、その後スローカン湖近くにあるいくつかの収容所に抑留された。戦争が終わり、家族は日本へ送還されたものの、彼はその3年後、12歳の時に単身ブリティッシュコロンビアに戻り、以来そこで暮らしている。

バンクーバーにある日系カナダ人の聖公会、すなわち聖十字教会(1970年までは聖十字ミッションと呼ばれていた)は、幼少期から現在に至るまで、バジルの人生において重要な役割を果たしてきたので、第1回と第2回では、聖公会と日系カナダ人との関係について、特にバジルの生い立ちに関連するいくつかの出来事に焦点を当てながら、ごく簡単に歴史的背景を説明していく。第3回からバジルの生い立ちを述べていく。

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謝辞: 本シリーズの日本語訳に関して、翻訳者の出石美佐氏に感謝の意を表します。出石氏はプロのツアーガイドとして働く傍ら、和歌山県美浜町の中高生で構成される「語り部ジュニア」の指導的立場でまとめ役を務めています。語り部ジュニアは、英語と地元のカナダ移民にまつわる豊かな歴史を学び、家族のルーツを求めて訪れる日系カナダ人観光客に英語で案内も行っている。

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執筆者について

スタンリー・カークは、カナダのアルベルタ郊外で育つ。カルガリー大学を卒業。現在は、妻の雅子と息子の應幸ドナルドとともに、兵庫県芦屋市に在住。神戸の甲南大学国際言語文化センターで英語を教えている。戦後日本へ送還された日系カナダ人について研究、執筆活動を行っている。

(2018年4月 更新)

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