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異国に伸びた日本人の根っこ。ブラジル日系人、苦難と栄光の歴史 — その2

サンパウロ日本人学校(写真:Wikimedia Commons

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勝ち組と負け組

1945年8月14日(時差により日本時間とは1日ずれる)、祖国敗戦の報がもたらされた。いつかは帰国すると願っていた移民たちにとって、敗戦は帰る場所が無くなってしまう事を意味した。

その心理的抵抗に加えて、「天皇の神聖な詔勅が、ポルトガル語で新聞にでたというのが、すでにおかしい」とか、「20万同胞の在住するブラジルに、正式な使節が派遣されないという理由はない」と多くの人々は考え、実は日本が勝ったという噂が広がった。移民の7、8割がこれを信ずる「勝ち組」に属した。

一方、移民社会のリーダーたちは、戦時中の検挙や資産差し押さえに懲りて、ブラジル政府を恐れ、敗戦を受け入れて「負け組」となった。彼らは勝ち組がやがてブラジル政府批判を始めて、自分たちはその巻き添えを食うという心配から、勝ち組を抑えにかかった。

戦前には大日本帝国の国威発揚を説いていた指導者たちが、手のひらを返すように敗戦を説き始めたことに、勝ち組の人々は裏切られたと感じた。負け組からは「負けたんだから、もう日の丸はいらない」などという発言まで飛び出したという。

「日本国家と皇室の尊厳のために立ち上がったんです」

負け組の筆頭と目された脇山甚作・退役陸軍大佐は勝ち組の若者4人に暗殺された。実行犯の一人、日高徳一はこう語っている。

僕等はなにも勝った負けたのためにやったんじゃない。あくまで日本国家と皇室の尊厳のために立ち上がったんです。脇山大佐には申し訳ないが、彼個人になんら恨みがあったわけではない。

『「勝ち組」異聞─ブラジル日系移民の戦後70年』
深沢正雪・著/無明舎出版

日高はすぐに自首して、牢獄島で2年7ヶ月を過ごしたが、その後、官選弁護士からは「目撃者はいない状況では犯罪は成立しない」から釈放だ、と言われた。日高は「それは違う。人の家庭をグチャグチャにしたんだから、こんなことで釈放では大義名分が通らない」と言い張り、約30年の量刑を言い渡された。

結局、10年で釈放されたのだが、「日本人が普通の生活をしていたらそれだけで模範囚ですから、どんどん刑期が短縮されちゃうんですよ」。テロリストですら純真な日本の心根を持っていた。

こうした事件を機に、ブラジル官憲が勝ち組と見なした3万人以上、すなわち在留邦人の7人に1人が取り調べを受けるという捜査を行った。その中では、「御真影(天皇陛下の写真)を踏んだら、留置所から出してやる」と言われた移民もおり、それを拒否しただけで監獄島に送られる、という弾圧も行われた。

「日本を愛する心を子どもに植え付けるために」

戦後、4、5年も経つと「戦争は終わり、日本は負けた。でも日本は残っている。引き揚げ者であふれ、食糧難の日本には帰れる場所はない。それに、子供はブラジルで大きくなってしまった。ブラジルに骨を埋めざるをえないのか」という諦めが広がっていった。

しかし、その諦めをバネにして「ここで子供にしっかりと勉強させて良い大学にいかせ、社会的に立派な立場にさせよう。そうすることで戦争中に自分たちをバカにしてきたブラジル人を見返さなくては」という志につながった。サンパウロ大学を「ブラジルの東大」と呼んで、親は身を粉にして働き、子供を送り込んだ。

勉学ばかりでなく、「日本を愛する心を子どもに植え付けるために日本語教育に力を入れよう」と考え、日本語教育や日本文化継承に全身全霊を捧げた人々も現れた。

拙著『世界が称賛する 日本人の知らない日本』でも、江田島の旧海軍兵学校を訪れた17歳のナタリア・恵美・浅村さんが、英霊の心を偲んで書いた「げんしゅくな気持ち」という一文を紹介した。

ナタリアさんは、サンパウロ市の松柏(しょうはく)学園の生徒で、この学園は1年に一度、20~30人の生徒を日本に送り、生徒たちは約40日をかけて沖縄から北海道までを回っている。

地球を半周する飛行機代と40日もの宿泊費は送り出す親にとって相当な負担であるが、「自分のルーツに誇りを持ってほしい」「美しい日本を見てきてほしい」という日系人父兄の切なる願いが40年にもわたる使節団の派遣を支えてきたのである。

このように祖国は敗れ、帰国も絶望的になったという境遇の中でも前向きな精進を続ける所に、日本人の根っこからのエネルギーが発揮されている。

「我々は日本語や日本文化の灯を絶やさなかったから生き残った」

深沢氏は勝ち組系の二世長老から聞いた次のような発言を紹介している。

戦後、認識派(JOG注:負け組)の子孫はどんどんコロニア(JOG注:日系人社会)から離れ、同化して消えていったが、我々は日本語や日本文化の灯を絶やさなかったから生き残った。そして、むしろそれが評価される時代になった。

(同上)

日本人としての「根っこ」を失えば、圧倒的多数のブラジル人に同化吸収されてしまう。逆に日本語や日本文化の根っこを大切に育ててきた人々は、ブラジル社会に独自の貢献ができ、それが評価される。

ブラジル法学界の権威である原田清氏は編著書『ブラジルの日系人』の中で「ニッケイは日本人の魂をもってブラジル人として振る舞う」人々で、「本国ではもう見られないような(伝統的な)日本文化をわかちがたい絆として引き継いでいる」と書いている。

深沢氏が「どんな伝統的な日本文化が次の世代に継承されるのか」と原田氏に問うと、「勤勉、真面目、責任感、義理、恩、礼などが残ると思う」と答えた。

これらの徳目こそ、日本人の根っこそのものだろう。本国・日本では占領軍とその後の左翼思想による歴史の断絶によって、我々の根っこがほとんど断ち切られてしまったが、ブラジルの日系人は意図的な努力で根っこを太く深く伸ばし、そこから湧き出るエネルギーによってブラジル社会で称賛される地位を築いたのである。

ブラジルの日系人の苦闘の物語は二つの事を我々に示してくれている。

第一に、日本人の根っこは、ブラジルという異境の大地においても、しっかりと太い根を伸ばし、立派な幹を育て、美しい花を咲かせたことだ。この事実は、日本人の根っこが世界に通用する普遍性を持っていることを示している。いまや世界各地で暮らし、仕事をしている在外邦人にとって貴重な示唆である。

第二に、ブラジルの日系人が、日本人の根っこからのエネルギーによって苦難を乗り越え、その過程でまた根っこを太く深く伸ばした事である。これは防衛、経済、少子高齢化など多くの苦難に直面している日本列島に住む日本人に希望を指し示している。

現代の日本人全体にこのような貴重な教訓を示してくれた在ブラジル同胞の一世紀の苦闘に深甚の敬意と感謝を捧げたい。

 

* 本稿は、購読者数4万3,000人、創刊18年のメールマガジン『Japan On the Globe 国際派日本人養成講座』に執筆されたもので、Mag2NEWSに掲載されたもの(2017年6月26日)を転載させていただきました。

 

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