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福田太郎―「ニッポンの黒幕」を支えた日系人

福田太郎。NHKスペシャル『未解決事件』より(スクリーンショットは著者による)

1990年の法改正によって、多くの日系人が来日したものの、依然として、日本人にとって彼らの存在は身近なものではありません。しかし、日系人の存在は、昭和初期より、日本社会のさまざまなところで見られるようになりました。今回は、「ニッポンの黒幕」を支えた日系人について紹介したいと思います。

彼の名前は、福田太郎。そして彼が支えたのは、児玉誉士夫。数多くの会社経営者のみならず、国会や地方の有力な議員とも深い人脈をもち、同時に右翼団体や反社会的組織の幹部とも通じたことから、「ニッポンの黒幕」として、多くの日本人が児玉を恐れました。

福田は1916年に、ユタ州ソルトレークシティで日系二世として生を受けました。両親は広島県からの移住者でした。福田は小さい頃にアメリカを離れ、日本で生活するようになりました。来日したばかりの頃、彼は早稲田国際学院(現在の早稲田奉仕園)で日本語を学びました。

1939年、彼はアメリカに戻ることなく、当時は「新天地」とされた満州行きを決意しました。満州電信電話会社で仕事を得たからです。しかしながら、満州での生活はそう長くは続きませんでした。1945年8月、多くの日本人がアメリカによる新型の爆弾投下に驚愕したさなか、赤軍(ソ連軍)が日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州に侵攻したからです。幸いにも福田はその年、日本に戻ることができました。

敗戦後の日本で福田が得た仕事は、進駐軍での通訳の仕事でした。当時の進駐軍は、アメリカで日本語の訓練を受けた二世のみならず、戦前から日本に住んでいた二世も、軍の通訳として採用していました。福田は当初、進駐軍の高級将校の通訳をつとめていましたが、進駐軍が戦争犯罪人の逮捕に踏み切ると、こんどは戦争犯罪人とされた日本人の通訳をつとめるようになりました。このことが、児玉との出会いにつながりました。

児玉誉士夫。進駐軍に逮捕されたときのマグショット(ウィキペディアより)


「ニッポンの黒幕」との出会い

進駐軍は福田を巣鴨プリズン(池袋サンシャインシティは、この施設の跡地に建てられました)に連れて行くと、児玉を紹介しました。当時、進駐軍はまもなく開廷される極東国際軍事裁判のために、日本社会における政財界の大物を、戦争犯罪の疑いを理由に、次々と逮捕していました。そして進駐軍は、通訳である福田の立ち会いのもと、A級戦犯の疑いのある児玉に厳しい尋問を行いました。このとき、進駐軍は児玉に「不問」という決定を下したので、彼は自由の身になりました。この決定には諸説ありますが、アメリカ政府の今後の外交戦略上、児玉を「利用価値のある存在」とみなしたことが、理由のひとつとされています。これを機に、彼は「アメリカの操り人形」という、新たな肩書きを得ました。

同時に、児玉は福田との交流を深めるようになりました。それは、福田にとっては青天の霹靂でした。1951年、福田は児玉の著書『われ敗れたり』(英名“I am Defeated”)を英語に訳しました。この頃のふたりの間柄は非常に親密で、児玉は福田のみならず彼の家族をも厚遇したといわれています。

一方、福田は1948年に進駐軍を去り、東京銀座で、ロマンス社という出版社を興し、主にアメリカの出版物を日本に卸すようになりました。しかし、経営難の状態が続いたため、数年のうちにその会社をたたみました。その後1958年、当時の日本社会では非常に珍しかった広告会社、“Japan Public Relations Inc.”(ジャパンPR社)を興しました。アメリカから発信されたニュースを日本のマスコミに配信したほか、アメリカの企業が日本に製品を売り込むための窓口としても、その業務の幅を大きく広げました。

 
「ニッポンの黒幕」の腹心となった福田

1960年代の末期、新たに導入する海上自衛隊の機材(哨戒機)を国産にするか、アメリカのロッキード社から輸入するかをめぐり、防衛庁(現在の防衛省)と大蔵省(現在の財務省)が対立していました。

このとき、アメリカ政府は児玉を通して、海上自衛隊にロッキード社のP3Cを導入させるように仕向けていました。福田は児玉を代表して、ロッキード社の関係者に会い、交渉を行いました。また、ロッキード社は取引成功のための工作資金として、多額の現金(現在の価値で約数百億円)を児玉に渡したとされています。その結果、海上自衛隊はP3Cを導入しました。

「工作」の成功を受け、ロッキード社は旅客機の取引においても、児玉を利用したいと考えるようになりました。当時、競合他社との熾烈な競争にさらされ、経営難にあったロッキード社にとって、児玉の存在は会社の将来にかかわる、非常に重要な存在でした。そして、児玉が利用されるたびに、福田の存在感は徐々に増していきました。

1974年、全日本空輸(ANA)はロッキード社製の機材(トライスター)を導入しました。しかし、この機材の導入をめぐり、マスコミによって大規模な疑獄事件が明らかとなりました。ロッキード事件でした。

この事件で、日本の検察(東京地方検察庁特別捜査部)が最初に目をつけたのは児玉でした。同時に、児玉の腹心の福田にも検察の手が及びました。検察は大物とされる児玉の身柄を拘束するのは容易ではないとして、手始めに腹心とされる福田の身柄を拘束したうえで、厳しい尋問にかけることにしました。

ところが、事件が明るみになった当時、福田は重い肝臓の病気を患い、新宿の東京女子医科大学病院に入院していました。彼の医師は、彼の余命が限られていることを検察に打ち明けたうえで、特別な条件下において、彼に事件の詳細を問うことを許可しました。そして彼も、検察の取調べを受けることを承諾しました。

しかしながら、検察は期待した以上の結果を、福田から得ることはできませんでした。彼は心身ともに、すでに病魔に蝕まれており、事件の大まかな事情を語ったものの、事件の詳細や核心については、ほとんど語らなかったからです。検察が彼から得た唯一の収穫は、児玉がロッキード社との取引において、いかなる不利益も被らないように工作を行ったことでした。彼は検察の捜査の手が及ぶことを察知して、大量の書類を処分するよう関係者に命令したとされます。

1976年6月、福田は事件のことを多く語らずに、病院のベッドの上でこの世を去りました。60歳でした。その8年後、渦中の人物であった児玉も、事件のことを多く語らないまま、この世を去りました。

ロッキード事件では、1976年7月27日に、警察が前総理の田中角栄を逮捕しました。「今太閤」とよばれた田中の逮捕に、多くの日本人が驚きました。同時に、彼の逮捕は、日本人の政治不信をより一層高めました。

福田太郎とは、どのような存在だったのでしょうか。いろいろな見解があるとは思いますが、日本社会に翻弄された日系人のひとりであると、わたしは考えます。彼のように、日本社会に翻弄された日系人の存在は、少なくなかったからです。

福田は、戦前は満州への移住、戦後は児玉誉士夫との関係をとおして、長年にわたって、日本社会に大きく翻弄された日系人のひとりでした。児玉に会うことがなければ、彼はおそらく、スキャンダルとは無縁の、ひとりの実業家として、その名前を戦後の日本社会のみならず、日系人社会においても、残したことでしょう。

 

参考文献

1. Hartung, William D. Prophets of War: Lockheed Martin and the Making of the Military-Industrial Complex

2. 猪瀬直樹『死者たちのロッキード事件』(文春文庫、1987年)

3. 竹森久朝『見えざる政府―児玉誉士夫とその黒の人脈』(白石書店、1976年)

4. NHKスペシャル「未解決事件シリーズ -- ロッキード事件 第1~3部」(2016年10月放映)

 

© 2017 Takamichi Go

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