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ロサンゼルスを拠点に 世界のウチナーンチュをつなぐ 当銘由洋さん

沖縄の米軍基地内で食のイベント企画

ロサンゼルスで沖縄を含む日本からの食品輸入事業に携わる当銘由洋さんに初めて会ったのは、2005年頃だったと思う。日本語雑誌「TV FAN」の発行人、竹内浩一さんが、「沖縄出身の知り合いが文章を書ける人を探している」のだと紹介してくれた。その後、私は当銘さんが開催したイベントのレポートを書いたり、また、沖縄のことをもっと知ってほしいとの要望に応えて沖縄出張に同行させていただいたりもした。

沖縄入りしたのは2008年だった。以前に沖縄県の委託駐在員の職も務めていた当銘さんの現地でのネットワークは実に広範に渡った。県庁職員は言うにおよばず、観光局、現地の食品メーカー、さらには沖縄の食文化の専門家である琉球大学名誉教授の尚弘子さん、当時の沖縄市長の東門美津子さんらに直接、取材する機会を得た。

印象的だったのは米軍基地内でのミーティングだった。米軍関係者に沖縄赴任期間中に沖縄の食文化に親しんでほしいとの目的で、基地内で沖縄の食のイベントを開催する企画を進めていたのだ。基地の中は、フェンスの外の建物の密集した様子とはまるで別世界。一瞬、アメリカかと錯覚するような広々とした芝生の間に建物が点在していた。実際、基地内ではアメリカと同じ生活を送ることができる。しかし、せっかく沖縄にいるのだから、その間に泡盛やそれに合う沖縄産の食材の料理を味わい、アメリカに帰っても、また世界各地に赴任した時も、そこでまた沖縄の食文化を広めてくれたら、という当銘さんのアイデアは実は素晴らしいと、私は感銘を受けた。

ウチナーンチュ大会開催に向けて

当銘さんは名護市の出身。アメリカに憧れていた高校生の頃に、軍関係者の家にホームステイすることで沖縄にいながら「留学」を経験した。高校卒業後は大学に進学するため、1964年にロサンゼルスに渡った。しかし、1980年代に入るまでロサンゼルスの沖縄クラブ(現在は北米沖縄県人会に改称)にはほとんど顔を出すことがなかったと話す。「会員は一世の方がほとんどで日本語だけでコミュニケーションを図っていたため、 三世も四世も関与している、現在の県人会とは全く様子が異なりました」と振り返る。アメリカを実体験するために故郷を離れた当銘さんにとって、故郷の方向ばかりを向いている当時の組織とは距離を置きたいというのが正直な気持ちだったのかもしれない。

80年代になると状況が変化した。当時の西銘沖縄県知事が訪米、アメリカのウチナーンチュの温かいもてなしに感激した知事の発案で、沖縄に世界のウチナーンチュが里帰りを果たす一大イベントを開催する機運が高まった。1990年、ハワイでは、ハワイの地元企業、沖縄県、県の民間からの寄付金550万ドルを投入し、大規模な沖縄センターが完成したことも、後に世界ウチナーンチュ大会と呼ばれるイベントの後押しとなった。

1990年、ロサンゼルス民間大使に選出された頃。左端が当銘さん

一方、ロサンゼルスではまだ県人会としての組織だった活動は展開されていなかった。この頃、アクセスが良くなったことで、沖縄の人々が頻繁にロサンゼルスを訪れるようになり、その世話役を務めていた当銘さんは第1回世界ウチナーンチュ大会に向けた、ロサンゼルスの民間大使の1人に選出された。以後、県人会に深く関与していくことになる。

個人的にも当時、ウチナーンチュとして当銘さんは転機を迎えていた。「息子のエリックが日系人の友人たちから『当銘という名前は日本で聞いたことがない。本当に日本人なのか』と言われたと報告してきたのです。息子が受けた、一種の差別とも思える出来事が胸に刺さり、これは何としてでも海外からの参加者たちが沖縄を誇りに思えるような大会にしなくては、という決意に至ったのです」

1990年、第1回世界ウチナーンチュ大会が、47万人を集めて沖縄で盛大に開催された。この時、当銘さんが提案したパレードは、現在に至るまで続いている。自身も大会への参加を通じてオリンピックのような高揚感を実感したと話す。アメリカに帰国後は、第2回大会に向けてアメリカ全土、さらには南米の沖縄県人会との協働を目的に、アルゼンチン、ペルー、ボリビア、ブラジルにも足を運び、多くの人々とのネットワークを広げていった。

2008年のブラジル沖縄県人移民100周年イベントに出席


グローバル思考の原点は
高校時代のホームステイ

ハワイに遅れを取っていたロサンゼルスの県人会を組織化することにも取り組んだ。拠点となる県人会館開設を目標に掲げ、当時の日の出豆腐の山内社長夫妻からの寄付金を元手にロサンゼルス近郊のガーデナ市に1999年、建物を購入した。

沖縄文化を世界に発信するための広報活動にも積極的に取り組んだ。この頃、ちょうど、当銘さんは沖縄県の委託駐在員としての職も引き受けていた。沖縄を世界に発信するためのキーワードとしてたどり着いたのは「長寿」と「空手」だった。空手に関しては、日本本土や中国発祥という間違った認識もある中、沖縄の武道であることを伝えたいという思いがあった。

また、沖縄の長寿の秘密は食生活にあることを1冊の本にまとめた「沖縄プログラム」が、2002年以降、アメリカでベストセラーとなったことも「沖縄の長寿」を発信していく契機となった。その後、サウスカロライナ州のクレムソン大学が沖縄産の薬草、ウコンに興味を持った際に現地に案内し、行政や農業試験場との面談をセッティングした。その後も長寿につながる沖縄の食材をアメリカ市場に流通させる取り組みを続けている。

こうして様々なプロジェクトを通して、沖縄とアメリカ、沖縄と世界をつないでいる当銘さんは、生粋のウチナーンチュでありながら、人種、文化、言語の壁をいとも簡単に乗り越える。沖縄の人はウチナーンチュ同士で固まる傾向が強いとの指摘もあるが、それは当銘さんには当てはまらない。その柔軟な考え方や行動姿勢の原点を聞くと、彼は次のように答えた。

「グローバルな感覚を持った人間でいたいと思った原点は、沖縄での高校生時代にあります。私は高校1年の時に基地内に住む将校の家にホームステイしていました。当時の我々はアメリカの統治下にあり、将校は支配する側で私は支配される側だと思い込んでいました。ところが、将校は夕食の時も実の息子の隣に私を座らせ、来客時も私を家族の一員として紹介しました。さらに軍関係者しか乗れないバスのパス(定期)を私に与えてくれました。1年の間、彼らに差別されることがなかったどころか、それまで思い込んでいた支配する側とされる側と言った感覚はアメリカ人には全くないのだということがわかりました。あの時のことが今でも強烈な印象として60年近く経つ今でも鮮明に残っているのです」

全米各地で沖縄物産展も開催。写真はニュージャージーのミツワで、ニューヨーク沖縄県人会の皆さんとともに

 

© 2017 Keiko Fukuda

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