ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2017/3/10/mexican-support-to-japan/

2011年東日本大震災の被災者に送ったメキシコのくす玉と応援メッセージ

2011年3月11日の早朝、画家の鈴木美登里さんはなかなか眠りにつくことができなかった。その日は朝から、日墨協会で自身とアーティスト仲間が企画した「マゲイの花(竜舌蘭の花)」という絵画展の開会式が予定されていた。眠ってしまった頃に電話がなり、友達から日本で大きな地震が発生したという知らせが入った。朦朧としたまま、次のように返事した:「心配しなくてもいいよ!日本ではいつも発生している地震の一つよ!」、と言って電話を切ったのである。

鈴木美登里さんの絵画作品

それから数時間後まだ朝のかなり早い時間だったが、美登里さんの娘に起こされ、手にしていたノートパソコンからマグニチュード9の大地震によって発生した、津波の映像を見せられた。日本の東北地方が大きな被害を受け、実はその地域には美登里さんの母親が住んでいたのである。映像を見るだけで、それ以上の説明は必要なかった。美登里さんは大きな衝撃を受け、一瞬悪い夢でも見ているのかと錯覚したが、ほんとうに信じられない光景だった。すぐに、宮城県気仙沼市の小さな町に住んでいる母親宅に電話をかけた。返事はなく、その近くに住んでいる妹や複数の友人にも電話をしたが、まったく通じなかった。美登里さんは、この方法では安否確認は無理だと思ったのである。

インターネットやSNSを通じて多くの映像やニュースが入ってきていたが、テレビとラジオ局からの報道もまた津波のようであった。美登里さんの母親は街の高台に住んでいたとはいえ、安否がわからないためとても心配になり、不安に陥った。妹の住まいは、逆に海岸の近くにあった。

鈴木美登里さんと夫のハビエル・ファリアスさん、1978年日本での結婚式にて。美登里さんの後ろに立っているのが母親のシゲコさんで、その右は弟のカズオさんとマコトさんです。そして、一番左は父親のツトムさんです。

朝食もとらず美登里さんはそのまま日墨協会の文化ハウスにいき、すでに準備してあった展示会のオープン初日のために最終調整をした。すべての作品が鑑賞できるように適切に配置されており、後は開会の式をするだけであった。しかし、現場では誰一人展示予定の作品について話すことはなく、話題は大地震と津波のことであった。出席者のさらなる悲しみを増したのが、その地震と津波の被害だけではなく福島第一原発の事故であった。原子炉の一つが大きな損傷を受け、その他の原子炉も冷却措置が作動しておらず、その結果放射能漏れのリスクがあるとされ、原発から半径20キロの住民が避難の対象になったのである。

地震の震源地 

絵画展の開会式を終えたとき、教え子や一般の参加者が美登里さんに励ましと応援の言葉をかけてきた。このような大惨事であっても、美登里さんの頭の中にはどのようにしたら同胞を支えることができるか、ということしかなかった。先生とアーティスト仲間は、それまで懇親会で出席者の皆さんと食べ終えたお菓子の空箱を使い、さっそく募金活動を始めた。すぐにその箱には入りきれないほどの紙幣と硬貨が集まった。もしかしたら、これがメキシコでは震災後最初に行われた被災者支援の募金だったかもしれない!

一方母親の安否については、数日間経ってもわからないままであった。大地震と大津波の被害はあまりにも甚大で、悲観的になり始めていた。その時点で数千人の死者と行方不明者がでており、東北地方で宮城県の被害が最も大きいということはまだ想像もできていなかったのである。最終的に2万人以上が亡くなり、40万棟の建物や住宅が破壊されたのである。

気仙沼市の川口町である。

震災から数週間経っても、当時当局は450万人の住民が電気もなく、150万人がまだ水の供給もないと伝えていた。公営放送NHKは、朝昼晩終日被災地の状況を放送していたが、美登里さんはほとんどクギ付けになっていた。悪いニュースが多く、気が休まることもなかったのである。原発による放射能汚染によって福島や周辺県の水や作物にも影響が出ていたので、それらを消費できなくなっていた。

震災によって東北三県である岩手県、宮城県、そして福島県の沿岸地域の町や村が、あのような壊滅状態になっていたその現実を美登里さんはなかなか受け入れることができなかった。幼少期や青春時代を過ごした美しい風景の跡形もなく、大好きな気仙沼市も悲惨で悲しい状況になっていた。太平洋戦争後、両親が満州から引き揚げたときを思い出し、そのときはこの地域は仕事も食べ物も与えてくれた。幼かった美登里さんは、この海から最も美味しいものをたくさんいただいたのである。例えば、カツオやウニ、そして海苔や昆布、ひじきやワカメという海の恵みをたくさん提供してくれた産地である。だからこそ、その美しい海が東北地方の多くの漁村を破壊してしまったことは、そう簡単に認めることができなかった。

二週間経っても電話は不通状態で、宮城の家族とは連絡が取れないままであった。毎日ニュースを観ながら、日本の被災者を支援するための事業を企画していた。とてつもない震度の地震と想像を絶する40メートルの津波が襲った被災地だったが、そのうえに原発から半径30キロ以降には4万5千人が避難生活をおくっていたのである。

鈴木先生にとって悲惨と破壊を映し出すテレビのニュースを観ることは、大きな精神的負担と苦しみでもあったが、母親と兄弟のことを知るためには欠かせないことであった。居住地区がどのようになっていたかを確認したかったのである。各テレビ局はニュースだけではなく、例えば気仙沼の被災者の状況も取材していた。そしてある番組で現場のリポーターがある民家の家の中から震災の生存者のことを中継するため承諾を得ようとしていたとき、なんとそこには85歳の母親の姿があったのである。ドアを開けて、リポーターに入るように言っていた。はじめはそのことが信じられず、すぐに大声で娘を呼び母の安否を確認してもらった。その放送の中で、妹のかずえ夫婦も元気であることがわかり、家が水と泥に浸かっていたため母の家にいると知ったのである。

気仙沼の上空写真。鈴木先生のお母様は、滝の入町に住んでいたのである。妹かずえの自宅は避難所になっていた小学校の近くであった(Google地図)。
 

家族の安否がわかったことで、被災者を支援する企画と事業にさらに力が入った。これには、日系社会だけではなく地元メキシコ国民の日本に対する強い連帯が表明され、様々な事業に関わってくれたのである。特に貧しい中学校の生徒たちが、日本の被災者に対して募金をしていたことは鈴木先生の心を大きく揺さぶり、それが新たな作品の制作に大きな励みになった。

美登里さんは、メキシコからの募金とは別にそうしたメキシコ人の連帯と愛情をどのように被災者に伝えたらいいのか、考えるようになった。そして震災から2ヶ月後、ようやく5月に里帰りをすることができた。その際、先生が花や人形を描いた12枚の布に多くのメキシコ人がスペイン語で書いた励ましのメッシージを、和訳を添付して被災者に届けた。気仙沼に到着してすぐに幾つかの小学校や自治体官舎を訪れ、宮城県民にメキシコ人からの応援メッセージを展示してもらったのである。そのメッセージの中には、このようなことが書いてあった:「最も悲惨な時に、我々メキシコ人は日本の皆さんと共にある」。

気仙沼の小学校で展示された応援メッセージの布

この12枚の布以外に、日本に在住している日系メキシコ人の武田さん一家の協力によってメキシコのくす玉「ピニャタ」も作った。この「ピニャタ」でメキシコに移住した日本人の歴史やこれまで受け継がれてきた伝統を説明し、そしてどのようにメキシコの子供達が喜びを分かち合い小さなプレゼントで楽しむのかを、日本の生徒たちに伝えたのである。

美登里さんは、何千、何万人のメキシコ人が募金してくれた寄付金を日本の被災者に直接持っていっただけでなく、自分のアートを通じて日本がもっとも必要としているときにメキシコ人の連帯と友情の気持ちを伝えたのである。

気仙沼の小学校でくす玉を割っているところ

© 2017 Sergio Hernández Galindo

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このシリーズについて

人と人との固い結びつき、それが、「絆」です。

このシリーズでは、2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震とその影響で引き起こされた津波やその他の被害に対する、日系の個人・コミュニティの反応や思いを共有します。支援活動への参加や、震災による影響、日本との結びつきに関するみなさんの声をお届けします。

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ここに掲載されるストーリーが、被災された日本のみなさんや、震災の影響を受けた世界中のみなさんの励ましとなれば幸いです。また、このシリーズが、ニマ会コミュニティから未来へのメッセージとなり、いつの日かタイムカプセルとなって未来へ届けられることを願っています。

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執筆者について

セルヒオ・エルナンデス・ガリンド氏は、コレヒオ・デ・メヒコで日本研究を専攻し、卒業した。メキシコやラテンアメリカ諸国への日本人移住について多くの記事や書籍を刊行している。

最近の刊行物としてLos que vinieron de Nagano. Una migración japonesa a México [長野県からやってきた、メキシコへの日本人移住]  (2015)がある。この本には、戦前・戦後メキシコに移住した長野県出身者のことが記述されている。また、La guerra contra los japoneses en México. Kiso Tsuru y Masao Imuro, migrantes vigilados(メキシコの日本人に対する戦争。都留きそと飯室まさおは、監視対象の移住者) という作品では、1941年の真珠湾攻撃による日本とアメリカとの戦争中、日系社会がどのような状況にあったかを描いている。

自身の研究について、イタリア、チリ、ペルー及びアルゼンチンの大学で講演し、日本では神奈川県の外国人専門家のメンバーとして、または日本財団の奨学生として横浜国立大学に留学した。現在、メキシコの国立文化人類学・歴史学研究所の歴史研究部の教育兼研究者である。

(2016年4月更新)

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