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南米の日系人、日本のラティーノ日系人

世界各地の「日系人」ー幕末から今日まで ― その2

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明治から本格的に開始された海外移住は、当初予定していたほど成果を上げることができなかったという見方もある。戦前何十万人もの日本人が南北アメリカ移住したが、その数は日本の総人口の1%にも満たないし、欧州からアメリカ大陸に渡った人の方がはるかに多い。国家の海外植民地政策と相まった部分もあったが、不利な通商条件にもかかわらず、明治日本の産業改革をはじめ、国内市場はそれなりに発展し、生活の質も向上した。蚕産業でかなり潤った農業地域もあり、製造業や商業も成長し、社会は一定の安定を保ったのも事実である。その結果、人口も増え、期待も高まった。しかし、社会すべてが豊かになったわけではなく、特に明治時代には貧しい農村地域で農民一揆が発生した。海外や北海道移住を選択せざるをえなかった人も多くいたのである。

日本国は、海外移住と同じかそれ以上に北海道移住を大きな優先課題と位置づけていた。帝政ロシアの樺太や蝦夷地(後の北海道)進出に備えるため、すでに幕末から行政的に監視と開拓を促進しており、明治政府になって本格的な北海道開拓がはじまった。東北や北陸出身が多く、毎年数万から十数万人が北海道へ移住し、1901年には100万人を突破した。大正時代にも北海道への移住は継続し、1920年には人口が230万人を数え、1940年には320万人に増加した1。この国内移住は、アジアや南北アメリカに移住者した日本人より多いということはあまり知られていない。

そして、敗戦に伴って1945年9月から日本は連合軍に占領されるが、1952年に主権を回復した直後から南米のボリビアやドミニカ共和国、パラグアイへの移住が展開された。数は限定的であったが、7万人弱が南米(ブラジルを含む)を目指し、アメリカとカナダに約9万人が移住、または再移住したのである2

もう一つ忘れてならないのは、終戦とともにアジアから民間人約300万人とほぼ同じ数の武装解除された軍人が「引揚者」として日本に戻ってきたことである。特に満州からの引揚者の中には、その後南米などへ移住・転住した者もいる。そして戦場となった沖縄からは、アルゼンチンやペルーにいる親族からの呼び寄せに始まり、ボリビアやブラジルにも多くの人が移住した。1950年代には、ボリビア東部にオキナワ移住地というものが形成され、3,229名が入植している3

筆者はこれまで何百通もの戸籍謄本をスペイン語に翻訳してきたが、ときどき戦前の満洲や台湾、朝鮮半島で生まれた先祖を持つ日系人に出会う。このような日系人たちは、こうした経緯があることを把握していないことが多く、なぜそうした国の名前や日本ではない地名が出てくるのかと聞かれたこともあるが、上記に述べたような戦前と戦中の情勢があったからなのである。当時の移住者は、そのような過去をあまり子供たちに話さなかったのだろう。敗戦の日本から抜け出した彼らは、新天地で新たな生活を切り開くのに精一杯だったのかもしれない。

戦後の混乱から約20年後には、東京オリンピックが開催され、東京〜大阪間の新幹線も開通された。日本は、60年代から70年代にかけて、それまでみたこともないほどの高度経済成長期に入り、あっという間に世界の経済大国2位になった。日本の継続的な経済成長、インフラ整備の充実、市場拡大、生活向上を見て、海外に移住した日本人は驚きを隠せず、移住したことを後悔した人もいるに違いない。

そして国策としての海外移住は、正式に1973年に終了する。そのころはまだ渡航費はかなり高額で、例えば、ブエノスアイレスー羽田の往復チケットは75万円相当でドル換算(1ドル360円)にすると2000ドルであったため、簡単に日本に里帰りすることはもちろんのこと、自費で海外に行くことも容易ではなかった。1985年のプラザ合意後は、1ドルが240円になり、その2年半後には120円まで円高が進みバブル期に突入する。円高によって多くの大企業は海外に資産を所有するようになり、この頃やっと日本人の海外旅行が容易になる。他方、世界経済の需要を満たすため国内の生産拠点は人手不足に陥り、南米の日系人が就労者として注目されるようになった。

1990年には入管法改正が施行され、その後大量の日系人が来日するようになる。2008年のピーク時には、39万人(ブラジル国籍が31万、ペルー国籍が約6万人)が日本に居住していた。しかし、リーマンショックや2011年の東日本大震災後は、多くが本国に帰国し、2016年末現在、23万人(ブラジル人17万人、ペルー人4万7000人)で落ち着いている。

歴史を振り返ると、日系人は世界各地に様々な足跡と功績を残してきたことがわかる。2018年は、日本人移住者第一陣がハワイに到着してから150周年を迎える。それを記念し、毎年東京で開催されている海外日系大会が6月ホノルルで行われることになった。また、2年ごと開催されているパンアメリカン日系人大会も2019年はカリフォルニア州のサンフランシスコで開催が決まった。中南米の日系人にとって、北米の日系人のことをもっと知る素晴らしい機会になりそうである。

2017年11月、リマで開催のCOPANI閉会式。次回2019年はアメリカのサンフランシスコで行われる

注釈:

1.1920年の日本の総人口は5600万人であるが、20年後の1940年には7200万人まで増加、人口増の社会的・経済的圧力は相当なものである。

2. 戦時中、日本に取り残された海外移住者の子弟(日本国籍を取得していた者も多い)はかなり多く、終戦直後からアメリカなどに戻ることを試みた。

3. 入植直後から、原因不明の熱病や川の氾濫、不作などによってかなりの日本人がアルゼンチンやブラジルへ転住を余儀なくされ、現在1,000人弱の日系人がこの移住地に居住している。3つの移住区域は47,000ヘクタール(470平方キロメートル)という広大な土地を持ち、様々な作物を生産している。ほとんどの住民が沖縄県出身である。

参考文献:

1)ハルミ・ベフ、「第1章:グローバルに拡散する日本人・日系人の歴史とその多様性」、レイン・リョウ・ヒラハヤシ|アケミ・キクムラ=ヤノ|フェイムズ・A・ヒラバヤシ=編『日系人とグローバリゼーション〜北米、南米、日本』、移民研究会=訳、人文書院、2006。

2)塩出浩之、「序章:近代アジア太平洋地域における日本人の移民と植民」、『越境者の政治史〜アジア太平洋における日本人の移民と植民』、名古屋大学出版会、2015。

 

© 2017 Alberto J. Matsumoto

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このシリーズについて

日本在住日系アルゼンチン人のアルベルト松本氏によるコラム。日本に住む日系人の教育問題、労働状況、習慣、日本語問題。アイテンディティなど、様々な議題について分析、議論。