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柔道見学団―日系アメリカ人と日本人の「つながり」を振り返る

アメリカの日系人社会ではその黎明期より、柔道は重要な文化的活動のひとつでした。1930年代、世界恐慌下であるにもかかわらず、各地で柔道を通した国際親善に取り組む日系人団体がありました。南加(南カリフォルニア)においては、南加講道館柔道有段者会が中心となって、優秀な成績を収めた二世の若者たちを、柔道見学団として日本に派遣することになりました。このとき、代表に選ばれた二世のなかに、オレンジ郡で不動産業を営み、当地の日系人社会の歴史を調査したことで知られる、西津クラーレンス巌(Clarence Iwao Nishizu)さんがいました。

西津さんによると、柔道見学団の一人あたりの旅費の総額は275ドルで、現在の価値に換算するとおよそ40万円でした。これは、当時の一般家庭では大きな負担でした。西津家でもこれほどの大金を準備することは難しく、西津さんは一世の知人、村田氏に農作物の収穫の仕事を紹介してもらい、みずから旅費を工面しました。1

1931年の9月中旬、柔道見学団として選抜された二世の若者たちは、サンぺドロ港で日本郵船の大洋丸に乗り込み、横浜港を目指しました。彼らは途中、ホノルルに立ち寄り、現地で開催された柔道大会に参加しました。それからおよそ1週間後、横浜港に到着した彼らは、桜木町の駅から列車に乗り、神田のYMCAホテルに向かいました。ここが、東京での宿泊地となりました。

ジャック・イワタフォトアルバム(51ページ)より。(ジャック&ペギー・イワタ氏寄贈、全米日系人博物館所蔵 [93.102.525])

彼らは1週間ほど東京に滞在し、講道館での稽古に励むかたわら、日光と泉岳寺を訪問したほか、当時の日本社会における各界の著名人と面会する機会を得ました。その中には、「柔道の神様」として知られている、柔道家の三船久蔵、鳩山一郎(元総理、自由民主党の初代総裁)、野間清治(講談社の創業者)、荒木貞夫(陸軍大将、A級戦犯)、床次(とこなみ)竹二郎(元内務大臣)、山本達雄(元日本銀行総裁)、竹下勇(海軍大将)、藤沼庄平(元警視総監)らがいました。西津さんによると、柔道見学団の旅程を調整した人物のなかに、当時の日本社会における各界の著名人と親しい間柄にあった人物がいたことから、各界の著名人との面会が実現したとのことです。

彼らにとって極めて貴重な体験となったのは、東郷平八郎(海軍大将)との面会でした。彼らは、日露戦争を日本優勢に導き、日本近代史に名を残す名指揮官であった東郷の腰の低さに驚きました。

西津さんによると、東郷の言葉は思慮深く、重みがあり、このようなことを二世の若者たちへ話してくれたそうです。

君らはアメリカで生まれ育った。
君らはアメリカ人である。

アメリカがどこかの国と戦争をすることになったときは、
君らはアメリカ人として戦わねばならない。

また、君らはアメリカ人ではあるが、
日本のご先祖様の存在を忘れることのないように。

(アンダーラインによる強調は著者による)

東京での日程を終えた彼らは、翌朝、東京駅から列車に乗り込み、名古屋、京都、奈良、広島、熊本、鹿児島など、日本の各地を訪れました。そして現地の道場や学校、警察署において、合同稽古と交流試合に臨みました。

この間、西津さんは父親の出身地であった福岡を訪れ、父親の兄弟姉妹や親類を訪問することができました。彼にとっては、これが初めての親類訪問で、とても感慨深い思い出となりました。福岡の西津家も、加州からの訪問者である西津さんを温かく迎えてくれました。

日本各地での稽古を終えた二世らは、鹿児島から船で一路、外地2を目指しました。はじめに、釜山と京城(ソウル)を訪れ、現地の警察署において、日本人と朝鮮半島の人々との合同稽古と交流試合に臨みました。その後、彼らは列車で中国大陸へ移動し、ムクデン(奉天)、ハルピン(哈爾浜)、さらには大連を訪問しました。そこでも現地に住む日本人との合同稽古と交流試合に臨みました。

中国大陸訪問を終えた彼らは、船で内地に戻り、数日後には横浜の港を離れ、南加に戻りました。彼らが柔道見学団として来日した期間はおよそ2ヶ月でした。日本列島のみならず、外地を訪問したことは、柔道の研鑽のみならず、当時の日本事情を理解するための、非常に貴重な経験となりました。

二世の異文化体験

日本を訪問した二世の若者たちにとって、日本社会は異文化の空間でありながらも、独特の居心地の良さを感じさせる「空間」でもありました。地元の日本語学校に通っていた人も多く、日本の文化や習慣に関する知識をある程度もっていたものの、初めて日本を訪れた人がほとんどでした。西津さんはのちに、長女のジェーンさんに当時の経験を、「まるでマジョリティのようであった」と語りました。

彼らが日本でまず最初に驚いたのは、ホスピタリティーのレベルの高さでした。特に、訪問先で著名な旅館に泊まることのできた彼らは、そのサービスの良さに感心しました。食事の時間になると、女将さんと女中さんが、何段にも重ねたお膳を丁寧に部屋に運んでくれました。そして、夕方近くになると、再び女将さんや女中さんが部屋にやってきて、蒲団を綺麗に敷いてくれました。彼らにとって、このような待遇は、生まれて初めてのことでした。

一方、アメリカ生まれでアメリカ育ちの二世の若者たちにとって、生活様式のギャップは、驚きの対象でもありました。椅子のない生活を体験した彼らは、美味しい料理に舌鼓を打った一方、食事中、座布団の上にずっと座っていたため、食事が終わった頃には足がしびれてしまい思うように歩けなくなりました。

一番のカルチャーショックは、和式のトイレでした。アメリカでは、トイレでしゃがむという経験など一度たりともなかったので、和式のトイレを使うことは彼らにとっては「苦痛」でした。西津さんによると、旅館のトイレが男女兼用であったこともまた、さらなるカルチャー・ショックだったそうです。アメリカの宿泊施設や公共の施設のトイレは、男女別であることが当然だったからです。

1931年の秋から冬にかけて日本に派遣された二世の若者たちの柔道見学団。それは、先の戦争が始まる前の日系人社会における、日系人と日本人の関係の歴史における重要な1ページでした。この頃はまだ、日系社会と日本社会との間に「絆」とよべる関係があったとわたしは思います。しかしながら、日米戦争が勃発したため、残念ながら日系人との関係は事実上の「断絶」となりました。日本敗戦後は、日本や日本文化と距離をおいた日系人も少なくなかったのですが、ララ物資、農業労務者派米事業(短農)、1964年の夏期五輪招致運動といった一時的な「関係」が再構築されました。しかしながら、どれも長期的なものには至らなかったほか、日系人社会では、日本人と日系人はそれぞれの道を歩むことが望ましいという声も聞かれました。

21世紀をむかえた現代、日系人と日本人との間に新たな試みが行われています。小規模なものではありますが、東日本大震災後、JACL(日系市民協会)の日本支部が中心となって、明治学院大学に通う、被災地出身の学生を対象にした、奨学金制度(返済義務なし)を始めました。このような動きは、柔道見学団が日本へ派遣された戦前の頃ように一時的なものになるかもしれませんが、今後も関心をもって注目していきたいと思います。

注釈

1. 西津家は当初、羅府(ロサンゼルス)で酒屋を営んでいましたが、禁酒法の施行後、一家は羅府からオレンジ郡に移り住み、農業で生計を立てるようになりました。1930年代初頭、世界恐慌の影響を受け経営が困難になりましたが、30年代の後半には当時の最新鋭の農業機器類などを購入できるまで経営状況は改善しました。しかし先の戦争が勃発し、農業経営は破綻寸前に追いやられ、一家はハートマウンテン収容所に送られました。戦後は、数年間の紆余曲折を経て、1950年代に再びオレンジ郡に戻り、農業を営んだのち不動産業に進出しました。

2. 当時、沖縄や朝鮮半島、さらには台湾など、明治維新以降に日本が支配するようになった地域は、外地(がいち)と呼ばれていた。

参考文献:

Nishizu, Clarence Iwao. Interviewed with Arthur A. Hansen. Honorable Stephen K. Tamura Oral History Project. California State University, Fullerton. Interviewed on June 14, 1982. Published in 1991.

 

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