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「花嫁のアメリカ」実録

1956年渡米、カリフォルニア州オンタリオ在住・ロペス文子さん 〜その2〜

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初めての里帰り、父のにぎりめし

1956年、サンフランシスコに到着した文子ロペスさんと夫のルイスさんは、グレイハウンドバスでカリフォルニアを南下、ロサンゼルス市内のルイスさんの妹の家のガレージを改装した一部屋に身を寄せた。

「家もない、車もない、お金もない、ないない尽くし。スーツケース1つからのスタートでした。ガレージの部屋にはキッチンもトイレも付いていませんでした。主人はアーミーの勤務で食堂を担当していました。何百人という軍関係者が食事をする食材の仕入れなどをやっていたようです。主人は非常に母親思いの人でした。メキシコ人ということもあり、聖母マリアを信仰することと関係があるのかもしれません。また、主人の母は片腕しかなかったのですが、カソリックの私立校に彼を通わせるために、さまざまな縫い物をして、それを売って学費を稼いだそうです。そうやって苦労して育ててもらったこともあり、彼は母親を心から尊敬していました」

そんな夫の家族から、文子さんはどのように受け入れられたのだろうか。

「よくもなかったし、悪くもなかったですね。辛く当たられたことはありません。でも逆によくしてもらったかと言うと、そういったこともありませんでした」

1959年には一人息子が生まれた。ルイス・ジュニアと名付けた。端午の節句には日本式にお祝いをした。節句と言えば、文子さんには桃の節句、雛祭りにまつわる忘れられないエピソードがある。

「夢を見たんです。うちの両親が私に買ってくれた、雛人形が全員号泣している、という夢でした。気づくとその日は3月3日でした。私に会いたくてお雛様が泣いているのだと思いました」

その夢を見る前、文子さんは息子を連れて里帰りを果たした。1963年だった。「父と母に孫の顔が見たい、と言われたので、初めて連れて帰りました。3歳か4歳だった息子が父に『おじいちゃん、お金ちょうだい』と手を出すと、父は嬉しそうに『しょうがねえなあ』と言いながら小銭を渡していました。そして実家の近くの商店街に買い物に連れて行ってくれました。私が米国に帰る当日には、父は拙い手でにぎりめしをにぎってくれ、『帰りの飛行機の中で食べろ』と渡してくれました。その夜、父は布団を被って泣いていたそうです。明治生まれの父がにぎってくれたにぎりめし。親の恩の深さにはただ頭が下がります」

その後、文子さんは両親が亡くなるまで、毎年のように帰省した。育児の心残りは息子に日本語を習得させなかったことだと言う。「私自身がアメリカ生活に適応するのに忙しく、息子に日本語学校に通わせたり、学ばせたりするゆとりがありませんでした」

その分、息子夫婦には孫たちの日本語学校行きを勧めた。そして文子さん自身、同じ日本語学校の幼稚園のクラスでお遊戯の指導などボランティアとして関わった。


出会った人がアメリカ人だったから

夫のルイスさんは引退するまでアーミーに勤務した。財産も何もない状態から出発した結婚生活だったが、真面目に働き続けた結果、立派な家も構え、孫たちも成長して、二人で引退生活を謳歌していた、まさにその時、金婚式の直前にルイスさんは膵臓癌を告知された。2006年1月だった。ホスピスケアを希望した本人の意思を尊重し、文子さんは自宅に介護ベッドを設置した横で、亡くなるまでの数週間、ほとんど寝ずに世話をした。そして2月11日、ルイスさんは自宅で静かに息を引き取った。

「最期は意識がもうろうとしていて、しゃべれる状態ではありませんでした。ですから、『ありがとう』とか『お前と結婚して良かった』などといった言葉はありませんでした。それでも、私から夫にメッセージを伝えるとしたら、『ありがとう』ということです。主人には感謝しています。そして、もちろん、父と母にもありがとう、と言いたいです。今でも私は寝る前に『お父さん、お母さん、今日も無事に終わりました』と言います。さらに主人も『ルイさん、おやすみね』と言っています。それを毎晩やっています。感謝の気持ちからです」

実はルイスさんは亡くなる前年、金婚式を夫婦で祝うため、2006年6月にハワイのホテルに宿泊する予約を入れていた。その予約を文子さんはホテルに電話して取り消さなければならなかった。キャンセルの理由を聞かれ、「夫が亡くなったからです」と答えた。その時、電話の背景にはハワイアンミュージックが流れていた。そこで文子さんは泣き崩れた。「もう少し生きていてくれたら」と、夫の死を改めて実感したと言う。

ルイスさん亡き後、家族で暮らした家から、現在はオンタリオに所有する6ユニットのアパートのうちの1軒に引っ越し、テナントの管理を自ら行っている。

メトロを乗り継いでオンタリオからリトルトーキョーに通う。川柳と俳句の会が生活に張りを与えてくれている。

そして第一金曜日はリトルトーキョーの川柳の会に、第二日曜日は同じくリトルトーキョーで開催される俳句の会に参加するのが楽しみだ。しかも、フリーウェイを運転しない文子さんは、メトロを乗り継いで通う。「日曜日はユニオンステーションでの乗り継ぎがすぐにないので、45分待ったりしています。片道2時間半かかります」

俳句の会がある第二日曜、5月は母の日だった。文子さんは一人息子の家族とその日を過ごすよりも、電車に乗ってリトルトーキョーに出かけていった。それだけ俳句と川柳が今は生活に張りを与えてくれている。

「日本人で良かった、と思います。日本人として日本語の漢字が読めて本当に良かった、と。一つの漢字にいろいろな意味があるでしょう。逆に英語についても、もっと勉強すればよかったと今になって反省しています。でも、私は日本人です。次にまた人生をやり直せるとしたら、アメリカには渡って来ません。日本で暮らしたいと思います。私はアメリカに来たいと思って来た訳ではないのです。出会った主人がアメリカ人だったから、それが渡米の理由でした」

ところで、文子さんはアメリカで、将兵との結婚で渡米した、自らと同じような境遇の女性と交流してきたのだろうか。「自分からそのような会に参加したことはありません。個人的に、たとえば、マーケットやポストオフィスなどで、日本語で話しかけられたのがきっかけで知り合ったことはあります。交流は続きましたが、その多くの方が亡くなられてしまいました」

同じ境遇だからという理由だけで積極的に友達になろうとも特には思わない、と文子さんは言う。人は人、自分は自分という考え方が凛とした彼女らしい。文子さんのその姿勢は、自らが詠んだ次の句にあらわれている。

生き様を変える気はなし、山椒の実

 

© 2016 Keiko Fukuda

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このシリーズについて

第二次大戦後にアメリカ人将兵に嫁いだ日本人女性、そして80年代にGIと結ばれた日本人女性まで、幅広い世代の「アメリカ軍人と結婚して渡米した花嫁」たちの軌跡を追う。