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ボランティアの声:全米日系人博物館を支える人々

ケネス・“ケン”・ハマムラさん

ケン・ハマムラさん(写真提供:全米日系人博物館)

ハマムラさんは、長年に渡り全米日系人博物館(以下博物館)で幅広い役割を担い、活躍してきた。博物館への寄付者、スタッフ、そしてボランティアとして活動する中で、ハマムラさんは、日系人の物語や遺品を保存・共有し、次の世代へつないでいくことの大切さを認識するようになった。

ハマムラさんは博物館の使命に共感し、自身の家族史を見つめ直し、娘や孫たちに継承していきたいと考えている。帰米二世の両親を持つ日系三世のハマムラさんは既に退職し、家族史に関わるアーカイブ資料を掘り下げ、写真を収集し、家族の過去にゆかりのある場所を訪れるなどして長年に渡り調査や記録を続けている。

ハマムラさんのおじいさんは、1886年、ハワイ島ヒロの北部、オノメアのサトウキビ畑で3年の契約で働くため、21歳で広島を離れた。おじいさんが乗った大型船は、日本からハワイのサトウキビ畑に向かう契約労働者を乗せた2番目の船だった可能性がある。乗船記録によると、3年の契約を終えたおじいさんは、その後何度もハワイと日本を往復している。職業欄には、その時によって農民、商人、または店員と書かれていた。おじいさんは1930年に広島で亡くなった。

「祖父のことをもっと知りたかった。農場の労働者のほとんどが日本に帰れなかった時代、祖父はどのように農民から商人、そして店員になることができたのだろう。私には兄弟がいないし、両親はほとんど家族の話をしなかった。親も年上の親戚も亡くなった今、失われた情報をつなぎ合わせるのは困難だ。」

ハマムラさんのお父さんはハワイ島オノメアで生まれ、日本の家族の元で教育を受けるために1歳で広島に渡った。15歳でオノメアに戻り、ホノルルへ向かう船の上で16歳の誕生日を迎えた。ヒロのS・ハタ商店で店員として働き、店の2階に住み込んだ。その商店の建物は、今ではヒロの歴史的建造物となっている。1930年、お父さんはハワイを離れ、カリフォルニアに移住した。サンフランシスコに到着した後、最終目的地であるウォールナット・グローブで叔父と合流し、農場で働いた。

母方のおじいさんも23歳で広島を離れ、ハワイ島パパーロアのサトウキビ畑で働き、3年後に農場の大工となった。ハマムラさんのお母さんはパパーロアで生まれたが3歳で広島に戻り、母親がお産で亡くなってからは親戚に育てられた。その後、11歳で家族と共にホノルルに戻り、学校に通うようになったが、日本語しか話せなかったため、小学2年生のクラスに入れられた。お母さんは、そのことがどんなに恥ずかしく、英語の勉強がどんなに難しかったかを覚えていた。「さぞかし大変だったろうと思う」とハマムラさん。お母さんは19歳で単身ハワイを離れ、サンフランシスコを経由し、叔父と叔母がレストランを経営するユタ州ソルトレイクシティへ向かった。

第二次世界大戦が勃発した時、お母さんはサンフランシスコで裕福な家庭の家政婦として働いていた。西海岸の日系人の状況が悪化すると、ソルトレイクシティの親戚にすぐに引っ越して来るよう促され、お母さんはすぐ列車に飛び乗った。大統領令9066号の発令の前にソルトレイクシティに到着したため、強制収容所行きは免れた。

一方、ロサンゼルスのグランド・セントラル・マーケットで働いていたお父さんは、当時まだ独身で32歳。大統領令が発令されると真っ先にポモナ集合センター(現在はロサンゼルス郡フェアグラウンド、フェアプレックスとなっている)に収容され、その後ワイオミング州ハートマウンテン強制収容所に送られた。収容所の記録には、物資供給と製造部門で働いていたと記されている。1945年8月、お父さんはハートマウンテンの収容所から解放され、ソルトレイクシティに向かった。日本町のスーパーで働き始めたお父さんは、そこで未来の妻と出会った。2人は1946年に結婚し、ロサンゼルスに移り住み、ウェスト・ジェファーソンでクリーニング店を始めた。

ハマムラさんと奥さんのジョアンさんは、元々博物館へ寄付をすることでサポートをしていたが、退職後は博物館で週に1度、ボランティア活動をするようになった。夫妻は、リトルロック、デンバー、シアトルで開催された全米会議の企画・運営も手伝った。

奥さんのジョアンさんと(写真提供:全米日系人博物館)

「定年退職後は、何かやることを探さないといけない」とハマムラさんは振り返る。退職しボランティアを始めて6ヵ月程経った頃、初代博物館長だったアイリーン・ヒラノ・イノウエ氏が、デモクラシー・フォーラムの建設を統率してくれる人材を探していることを知った。ハマムラさんは2年の契約でプロジェクト・ディレクターを務めることになり、博物館スタッフとなった。建築や建設関係の仕事は初めてだったが、意欲的に学びながらプロジェクトを進めた。かつて博物館理事を務めた故スティーブ・アライさん(シアトルの建築家)とボブ・ヴォルクさん(リトルトーキョーの不動産兼住宅開発業経営者)は、プロジェクトを通してサポートと助言をしてくれた。ハワイ選出の上院議員であり、博物館理事長だった故ダニエル・イノウエ氏もデモクラシー・フォーラムの建設に特別な関心を寄せた。ハマムラさんは、プロジェクトに取り組みながらイノウエ議員と個人レベルでも交流できたことを、とても幸運だったと振り返っている。

2013年10月、ハマムラさんは博物館の理事に就任した。寄付者、ボランティア、スタッフ、そして理事の4役全て経験した人は、今までのところハマムラさんしかいない。ハマムラさんは、現在も週に1度のボランティア活動を継続し、博物館の写真アーカイブ・コレクションのとりまとめと分類を手伝っている。

「自分の家族史や他の日系アメリカ人の経験を知れば知るほど、一世や二世の人々が非常に困難な時代に成し遂げてきたことへの感謝の念が湧いてくる」とハマムラさんは語る。一世や二世は大変な差別や偏見にさらされてきたが、彼らが敷いた土台の上に三世やそれ以降の世代の成功が築かれている。

 

* 本稿は、 日刊サンの金丸智美氏がインタビューをし、そのインタビューを元に、ニットータイヤが出資し、羅府新報が発行した『Voices of the Volunteers: The Building Blocks of the Japanese American National Museum (ボランティアの声:全米日系人博物館を支える人々)』へエレン・エンドウ氏が執筆したものです。また、ディスカバーニッケイへの掲載にあたり、オリジナルの原稿を編集して転載させていただきました。

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提供:

 

© 2015 The Rafu Shimpo

janm Japanese American National Museum Ken Hamamura sansei volunteer

このシリーズについて

このシリーズでは、ニットータイヤからの資金提供を受け『羅府新報』が出版した冊子「ボランティアの声:全米日系人博物館を支える人々 (Voices of the Volunteers: The Building Blocks of the Japanese American National Museum)」から、全米日系人博物館ボランティアの体験談をご紹介します。

数年前、ニット―タイヤはロサンゼルスの邦字新聞『日刊サン』と共同で全米日系人博物館(JANM)のボランティアをインタビューしました。2014年末、これらのインタビューを小冊子にまとめるべく、ニットータイヤから私たち『羅府新報』に声がかかり、私たちは喜んで引き受けることにしました。JANMインターン経験者の私は、ボランティアの重要性や彼らがいかに献身的に活動しているか、そしてその存在がどれほど日系人の歴史に人間性を与えているか、実感していました。

冊子の編集にあたり、私は体験談ひとつひとつを何度も読み返しました。それは夢に出てくるほどでした。彼らの体験談に夢中になるのは私だけではありません。読んだ人は皆彼らの体験にひきこまれ、その魅力に取りつかれました。これが体験者本人の生の声を聞く醍醐味です。JANMのガイドツアーに参加する来館者が、ボランティアガイドに一気に親近感を抱く感覚と似ています。ボランティアへの親近感がJANMの常設展『コモン・グラウンド』を生き生きとさせるのです。30年間、ボランティアが存在することで日系史は顔の見える歴史であり続けました。その間ボランティアはずっとコミュニティの物語を支えてきました。次は私たちが彼らの物語を支える番です。

以下の皆様の協力を得て、ミア・ナカジ・モニエが編集しました。ご協力いただいた皆様には、ここに厚く御礼申し上げます。(編集者 - クリス・コマイ;日本語編者 - マキ・ヒラノ、タカシ・イシハラ、大西良子;ボランティアリエゾン - リチャード・ムラカミ;インタビュー - 金丸智美 [日刊サン]、アリス・ハマ [日刊サン]、ミア・ナカジ・モニエ)

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