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坂本龍馬の開国論のその先に — ブラジル移民の祖、水野龍 ~その1

2015年11月にサンパウロ市で取材した時の水野龍三郎

1908年に第1回移民船「笠戸丸」を運行させ、ブラジル移住を始めた男「水野龍」(1859 ―1951年、高知県)。そんな大功労者の息子・龍三郎(85、二世)を取材したとき、「親父は『移民事業は失敗だった』と落胆したまま死んだんです…。日本移民百周年(2008年)でブラジル社会からあのように盛大な賞賛が寄せられた時、まず墓前で父母に伝えました。一世紀を経て、お二人の苦労は、ようやく報われました、と」と感極まった様子で言ったのを聞いた時、心底おどろいた。

家族しか知らない〝移民の祖〟の実像がそこにある。水野が死んだ1951年はまだ、終戦直後に起きた「勝ち負け抗争」の余韻が強く残っている時代であり、ブラジル社会からの反日感情はかなり強かった。死に際の水野龍が「失敗だった」と思ったのもムリはない。

だがその状況は、移民百周年を迎えた2008年までに大きく変わった。事実、2016年8月のリオ五輪開会式でも、ブラジル建国の重要な要素として、日本移民は顕彰されるまでになったことは記憶に新しい。

激動の明治維新の時代に土佐藩で侍として生まれ、自由民権運動の過激派闘士をへて移民会社社長になった水野龍。彼なくしてブラジル移住は始まらなかったはずだ。日本にブラジル・コーヒーを紹介する貢献までし、最後は家族を連れて自ら移住した。

だが、笠戸丸移民から預かった金の問題が尾を引いて、客観的な評価がされてこなかった不運な先駆者といえる。


過激すぎる民権運動の闘士

1878(明治11)年、水野龍は19歳の時、高知県佐川町の名刹「乗台寺」に住民が集まっている前で、自由民権思想を説く過激な演説をして警察に捕まり、40日間も牢屋に入れられた。この出来事が、若き水野の人生のその後を大きく変えた出発点だ。

19歳の若者の演説が、治安妨害になると警察に中止させられ禁獄40日間を食らい、町史に名を残した。よほど過激だったに違いない。

彼の死後に編纂された『龍翁伝』の中で最も驚くべき逸話は、なんといっても立憲改進党の党首、大隈重信の爆殺未遂事件のくだりだ。

「同志と共に大隈重信を狙って爆弾を作って青山墓地で試験したが目的は達しなかった」(7頁)とごく簡潔にある。外務大臣、総理となる大隈重信の爆殺テロを謀るというのは、若さゆえだとしても過激すぎる。

この事件が何年に起きたのか定かではない。しかし、過激な反政府テロ事件が1881(明治14)年の秋田事件以来、全国各地で起き「激化事件」と呼ばれており、その流れの中の事件であった可能性がある。

もしこのテロが成功していたら、日本の近代史を変えた危険人物として後世に名が伝わっていた。水野は刑に処され、ブラジル移民は始まらなかったかもしれない。


「父は悪人だと思っていた」

2011年7月13日晩、パラナ州クリチーバ市にある龍三郎の自宅を訪れると、「周りの大人がみんな水野龍のことを悪く言うから、僕は大人になるまで父は悪人だと思っていた」とじくじたる思いをこめて言った。

「だって僕にもの心ついた頃、父は日本でした。回りにいた日本人はみな『俺達は水野にダマされてブラジルまで連れてこられたんだ。俺達の世話をするのは当然だ』と母に脅すようなことを言って食べ物やお金をもっていくんですから」。

ブラジル移民を始めたという類稀な業績を持った父の存在を、息子ですら長い間、理解できなかったわけだ。

1931年2月生まれの龍三郎がもの心つく頃といえば、太平洋戦争の開始前後だ。水野龍はパラナ州ポンタ・グロッサに理想郷たる土佐村(曙植民地=コロニア・アルボラーダ)の建設を開始したのが1936年、途中で資金が足りなくなって訪日したのが41年6月。資金のめどが付いて戻る直前に真珠湾攻撃が起き、妻と子をブラジルに置いたまま、戦中戦後の10年間、郷里の高知に足止めを食った。その間の出来事だ。

「そんな日本人たちに、母は一言も言い返しませんでした。ただ『ゴメンナサイ』と繰り返し、『今はこれだけしかありません』と、お金でもモノでも、食べ物でも、あるものを全て渡していた。あの頃の母の苦労は並大抵のものではありませんでした。そんな後姿ばかり見て育ちました」と振り返る。

自分達を置き去りにしていった父は、息子にとって偉人ではなかった。母の震える小さな背中を見ながら、「なぜ言い返さないのか…」と歯がゆい思いを噛み締めていたという。

龍翁会の支援で1950年5月19日に飛行機で帰伯した晩年の水野龍(水野家所蔵)

終戦後、水野をしたう友人らが集まって「龍翁会」をつくった。彼らが水野龍の帰国旅費50コントスを拠金し、日本に送った。1950年5月19日午前11時、水野はなつかしのサンパウロ市に飛行機で到着した。この時、すでに91歳。

息子の龍二郎がコチア産業組合に務めていた関係で、水野龍は聖市カシシギー区にあった組合の職員住宅に息子らと同居していた。

龍三郎はそこでの水野の生活をこう説明する。「毎朝きまって7時から読経をし、何百人もの人の名前をソラで読み上げて供養していた。ブラジル移民事業に関わった恩人、笠戸丸移民、親類縁者などに感謝し、雨が降ろうがなんだろうが、9時半ごろまでずっと祈っていた」。

それほど世話になった人、恩のある人、おそらく不義理をしてしまった人もたくさん居たはずだ。まるで日露戦争の日本海海戦でバルチック艦隊を破った作戦の参謀・秋山真之が、軍隊を退いた後、僧侶になって毎朝、亡くなった戦友の名前を読み上げ、熱心に読経していた姿に通じるものがある。

帰伯した水野は早々に、「はやくアルボラーダ(パラナ州の曙植民地)に連れて行ってくれ」と家族に何度も懇願した。万亀はずっとアルボラーダが戦争中に売られてしまったことを黙っていたが、どうしようもなくなって最終的に顛末を話した。

それを聞いた水野は呆然とし、それから半年も立たぬうちに昇天したという。

アルボラーダ建設資金を作ろうと訪日し、10年間も日本に滞在した苦労が水の泡になった気分だったかもしれない。アルボラーダは、水野の心の支えだった。

そして8月14日、ブラジル移民創始者はサンパウロ墓地第36区121号(Terrno 121, quadra 36,Cemiterio Sao Paulo)に埋葬された。龍翁会は立派な墓を作り、『龍翁伝』を編纂・出版して残した。

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© 2016 Masayuki Fukaawa

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