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https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2016/10/24/hansen-takata-wedding/

ハンセン家とタカタ家の結婚式 - パシフィック園芸センターの日本庭園

7月、パシフィック園芸センターの盆栽庭園で大変特別な結婚式が挙げられました。タカタ・ジャパニース・ガーデン創設者の子孫、ディロン・タカタとリサ・ハンセンが結ばれたのです。ビクトリア裏千家淡交会1にとって、式の開始前にディロンと彼の両親、祖父母、そして招待客のために、伝統的な茶道を披露できたことは嬉しく喜ばしいことでした。

ディロンの父、デービッド・タカタが、ガーデンの始まりについて説明したプレゼンテーションを下記にご紹介いたします。

* * * * * 

写真提供: クリスチャン・ティスデイル / グローブ・フォトグラファーズ

リサとディロンの結婚式で、ご挨拶させていただけることを大変光栄に思います。二人からタカタ・ジャパニース・ガーデンについて皆さんに簡単にご説明し、それからタカタ家族のビクトリアでの歴史をお話するよう依頼されました。

皆さんは既にここパシフィック園芸センターの日本庭園の見学を楽しまれたことでしょう。実はこの庭園、エスクァイマルトのゴージパークにあったタカタ・ジャパニース・ティーハウス&ガーデンの記念庭園なのです。ここに二本のカエデの木があるのに気づかれたでしょうか。樹齢100年を超えるもので、当初タカタ・ガーデンにあったのをうまくここに移植したのです。

最初のタカタ・ジャパニース・ティーハウス&ガーデンは1907年にエスクァイマルトのゴージ水路に建設されたのですが、BC電気鉄道会社に1.5エーカーの借地料として毎月$50という法外な金額を払っていました。創設者はヨシタロウ(ジョー)・キシダとディロンの曽祖伯父ハヤト・タカタで、ハヤトはハリーと呼ばれていましたが、後年私たちは『パイプのおじいさん』と呼んでいました。庭園の設計はあの有名なブッチャート庭園の設計者、岸田伊三郎氏です。

このガーデンとティーハウスはビクトリア住民の人気の娯楽施設となり、毎年5月のビクトリア・デーからレイバー・デーまで大変盛況でした。デザインとモチーフは日本的でしたが、ティーハウスのメニューは非常に『英国的』で、紅茶とバター塗りトースト、ポーチドエッグ、アイスクリーム等が載っていました。今日の多彩な和食ブームからすると、何か皮肉な感じがします。

ジョー・キシダが日本に帰国し、ディロンの曽祖父ケンスケが、兄ハヤトの庭園のパートナーになりました。ハヤトは独身でしたが、ケンスケと妻ミスヨには6人の子供がいました。ディロンの祖父を含む4人の息子と2人の娘たちはこの庭園で育ち、遊び、働いて、ゴージで泳ぎを覚えました。家屋は渡り労働者の飯場を改造したもので、子供が増えるにつれて増築し、金属板に木製の湯船を乗せた和式のお風呂がありました。

ケンスケは大工仕事が得意で、園芸の眼識と才能があり、庭園の植物を育てるビニールハウスを作ったり、池にオシドリを放したりしました。オシドリの大半はネズミに食べられてしまったそうです。

私のお気に入りの話の一つはミスヨお祖母さんの話です。ある日お祖母さんが一人で留守番をしていると、リムジンがガーデンの前に止まりました。立派な紳士がお抱え運転手と一緒に降りてきて、日本のモミジを一本売ってもらえないかと尋ねたそうです。お祖母さんは英語があまり上手じゃなかったので、その場で売ってあげることができず、リムジンは行ってしまいましたが、翌日運転手が戻ってきて、昨日の乗客の代わりにモミジを買って行きました。何と後になって、あの紳士はカナダ総督トゥイーズミュア卿、ジョン・バカンだったことが分かったんです。彼は小説家としても知られていて、アルフレッド・ヒッチコック監督によって映画化された有名な小説『三十九階段』を書きました。この映画はロッテン・トマトで98%の評価を得ています。

残念ながら1930年代に入るとガーデンの商売は傾いていきました。車の普及により、人々は遠出して余暇が楽しめるようになったのです。ゴージの汚染もひどくなり、泳ぐこともできなくなりました。1929年の大恐慌で商売はさらに悪化し、1942年4月、ガーデンとティーハウスは閉鎖され、一家はスローカンとサンドンの強制収容所に送られて、二度とビクトリアに戻ることはありませんでした。ガーデンは荒廃し、終に完全に取り壊されてしまいました。

当時ビクトリアに住んでいた日系人が終戦後、一人もビクトリアに戻ってこなかったのは興味深いことです。タカタ家族はトロントに移り住み、人生の再出発を果たしました。ケンスケはトロントで最初に盆栽芸術を紹介した一人です。ブレンダンの祖父はトロント大学に通い、機械工学修士号を取得して卒業しました。

話を現代に早送りしましょう。2006年、エスクァイマルト町区はタカタ・ティーハウス&ガーデンがあった場所に日本庭園を建設するという計画を発表し、造園家のマイケル・グリーンフィールド氏が雇われて作業が開始しました。2012年はエスクァイマルトの100年祭の年で、庭園で献納式が開かれ、ゴージで育ったタカタ家の生存する子供たち、つまりディロンの祖父、大叔母マリエ、そして大伯母トシエが出席しました。

さて、ディロンの曽祖伯父ハヤトと曽祖父ケンスケはどうなったか。まず、ハヤトはトロント移住後、日本に残した家族の遺産が長兄の妻の実家の手に渡ってしまうのを恐れて帰国し、そこで亡くなっています。

ケンスケは広島県向洋にあるタカタ家先祖代々の屋敷の食堂で1884年に生まれました。1979年10月、彼は自分の盆栽を倉庫に入れた後、親戚を訪ねて日本を訪れたのですが、そこで肺炎にかかり、自分が生まれた部屋で95年の生涯を終えています。この部屋は、偶然にもディロンの祖父がほぼ91年前に生まれた部屋でもあります。

2014年6月、リサとディロンがビクトリアに引っ越した時、75年もの時を経て日系パイオニア家族の子孫がビクトリアに戻ってきたことになります。そしてともかく今は、彼らがここで家族のレガシーを継承しているのです。ハヤトとケンスケがあの世で微笑みながらこの時を心から楽しんでいるのは間違いありません。

結婚式にて。左から3番目の青いシャツを着たのがデービッド・タカタ氏 (写真影響:ディロン・タカタ)

注釈:

1. ビクトリアの裏千家淡交会(Urasenke Tankokai Victoria Association)は、日本国外の107番目の茶道グループとして2015年6月に正式に裏千家の海外協会となりました。2016年4月に初の昼食会が開催され、11歳から84歳の茶道を学ぶ30名が参加しました。京都本部の代理として、サンフランシスコ出張所のクリスティ・バーレット・ソウエイさんにもご臨席いただきました。

 

* 本稿は、ビクトリア日系文化協会のニュースレター(2016年9・10月号)からの転載です。

 

© 2016 Kathy Harris

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執筆者について

キャシー・ハリス(旧姓:キヨミ・トノガイ)さんは、ビクトリアで茶道教室が始まった2002年に茶道を学び始める。ブリティッシュコロンビア州のタシメ強制収容所で日系二世として生まれたキャシーにとって日本の伝統は身近なものではなく、戦後の日系家庭のほとんどがそれぞれの転住先に同化しようとしていたように、キャシーも日本文化を実践することも、理解することもなかった。ウィニペグで育ち、20年以上前にブリティッシュコロンビア州に戻ったキャシーが茶道を学ぶことは、“日系である”ことについて少し学び、茶道の4つの心得である和敬静寂に倣う機会となった。ビクトリア大学を退職後は、ロイヤル・ブリティッシュコロンビア博物館、クレイグダロック・キャッスル歴史博物館、ビクトリア大学退職者協会(University of Victoria Retirees Association)でのボランティア活動や、ビクトリアの裏千家淡交会(Urasenke Tankokai Victoria Association)で茶道の伝統を仲間と共に学び、共有することにほとんどの時間を費やしている。

(2016年10月 更新)

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