ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2016/10/21/6170/

ロサンゼルス・ソーテル地区に集まった日本人キリスト教信者たち

約100年前に一世たちが作り、今でも続いているロサンゼルスにある数カ所の日本語学校は、パサデナにある日本語学校パサデナ学園をはじめほとんどが「学園」と呼ばれている。しかし、ウエスト・ロサンゼルスのソーテルにある日本語学校The Japanese Institute of Sawtelleの日本語の正式名称は「ソーテル日本学院」である。

長い間わたしは、この学校の日本語名称は「ソーテル日本語“学園”」だと思い込んでいた。2015年12月に行われた90周年記念イベントで、高橋美和校長が何度も「ソーテル日本学院」と呼び、印刷物にも「学院」と書いてあることを見て、間違って名前を覚えていたことに気がついた。

日本では、明治学院、神戸女学院、広島学院(中・高校)の名称のように、キリスト教の理念によって設立された学校に「学院」がよく使われる。ロサンゼルスでは「学園」という名前を持つ日本語学校は、仏教会のメンバーを中心に設立、運営されてきた歴史を持っており、「ソーテル日本学院」は、日本人のキリスト教信者によって作られた学校かもしれない、とひらめいたのだった。

わたしの直感は、90周年記念イベントの時すぐに確認ができた。学院の創立者・坂本儀助の孫、ランディー坂本さんが出席していたからだ。その後、ランディー坂本さんとの数回にわたるインタビューとメールのやり取りを通し、戦前ソーテルに集まった日本人キリスト教信者たちの様子を知ることができた。

ソーテルに日系コミュニティができたのは、1920年代であった。西ロサンゼルス仏教会は1928年に設立され、1930年には西ロサンゼルスメソジスト教会が設立された。これらの二つの建物は、現在でも1ブロックしか離れていない場所に存在している。

1930年の記録によると、この頃のソーテル日本学院は、仏教徒とキリスト教徒の一世が一緒になって運営しており、二世に日本語教育を施す場になっていた。

坂本儀助は、現在の福島県いわき市の出身で、アメリカへ来る前にすでにキリスト教の信者になっていた。東京で英語を学び、後に京都の同志社英学校(現在の同志社大学の前身)に入学した。1894-1895 年の日清戦争と1904-1905年の日露戦争の従軍経験者でもあった。

坂本はいわき市で絹織の工場を経営していたが、事業が傾き、新たなビジネス・チャンスはないかと、妻と長男、父母を残して、1907年、37歳の時に単身渡米した。1913年、日本に戻り、妻のふさを連れて再渡米をし、1924年までに、母のまさと長男の織衛(おりえ)をロサンゼルスに呼び寄せている。

1920年には、現在のロサンゼルス・ダウンタウンにあるコンベンションセンター近くに、G.S. Supply Co.という食料品店を経営するようになっていた。1921年、この店舗をソーテル地区に移し、1925年に大きな自宅を新築した。この住宅は今でも残っていて、ランディー坂本さんが所有している。

ロサンゼルスのグランド・セントラル・マーケットで商売をする坂本儀助と妻のふさ(中央の2人)、1919年頃。(写真提供:ランディー坂本さん)

1925年11月、坂本は自宅の一室で、4人の子供たちに日本語を教え始めた。これがソーテル日本学院の始まりだという。同じ時期に、坂本の自宅でメソジスト派牧師によるキリスト教信者の集会も始まった。

日本での坂本は、バプテスト教会のメンバーだったが、ロサンゼルスにはバプテスト派の日本人牧師がいなかった。メソジスト派の日本人牧師が定期的にソーテルを訪れることを約束してくれたことから、ソーテルにメソジスト派の集会が生まれた。

このソーテルの日本人メソジスト派信者らは、1930年5月にウエスト・ロサンゼルス・コミュニティ・メソジスト教会 (West Los Angeles Community Methodist Church)を結成する。この教会は、今日のウエスト・ロサンゼルス合同メソジスト教会(West Los Angeles United Methodist Church)の前身にあたる。

ウエストロサンゼルスコミュニティメソジスト教会の母の日の集会、1932 年5月。この教会は1930年5月に、ソーテルのベテラン・ホールを借りて初めて礼拝が行われた。しかし反日運動がおこり、1932年にはベテラン・ホールを追い出されたため、近所の材木置場を借りて礼拝を行った。この母の日の写真も、材木置場で行われた集会。
(写真提供:ランディー坂本さん)

ソーテルのメソジスト教会に、戦後、日米友好のシンボル的存在として注目を集めることになるクエーカー教徒の牧師・ハーバート・ニコルソン(Herbert Nicholson, 1892 – 1983)が現れたのは、1940年のことだった。この当時、日本人教会は、すでに現在の教会の建物(1913 Purdue Ave)を所有しており、フジモリ・ジュンイチという日本人牧師がいた。しかしフジモリ牧師が病気になったため、かわりに25年間の日本宣教からアメリカに戻ったばかりで、流暢な日本語を話すニコルソンが牧師として招聘されたのだった。

West Los Angeles United Methodist Church 設立45周年(1970年)記念行事に参加したハーバート・ニコルソン牧師。
(写真提供:ランディー坂本さん)

ニコルソンは、在米日本人にとって最も困難な時代を、日本人と共に歩んだ。1941年12月7日、真珠湾攻撃の日の夜、坂本とウエスト・ロサンゼルスの日本人コミュニティーのリーダーたちはFBIに拘束された。ニコルソンは、これを予期していたという。12月末までには、坂本はモンタナ州ミズーラにある連邦刑務所に送られた。その6カ月後には、マンザナー収容所に移され、家族と合流した。

この時期、ニコルソンは日系コミュニティの擁護に奔走した。自らトラックを運転して、ロサンゼルスとマンザナー強制収容所の間を何度も往復して、収容所の日本人に物資を届けたり、収容所の中で礼拝を行った。

戦後、ニコルソンは、食料不足の日本人のためにと、ミルクを出すヤギを沖縄と本土の戦災地に送り、日本の教科書に「やぎのおじさん」として取り上げられる存在になる。またニコルソンは、坂本の故郷いわきに身体障害者の福祉施設「いわき福音協会」の設立を試みていた坂本に協力している。

一方ソーテル日本学院は、1929年に現在の2110 Corinth Avenue に教室棟と講堂兼道場を建設した。された。現在でもこれらの建物は使われている。講堂兼道場として使われている建物は、ソーテル柔道クラブがスポンサーとなって建築したもので、その所有権は、現在でもソーテル柔道クラブが持っている。

戦後、儀助が亡くなってからは、ソーテル日本学院の創立者、坂本儀助がソーテル・キリスト教信者たちのリーダーだったことは、忘れ去れてしまった。

 

© 2016 Shigeharu Higashi

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執筆者について

1954年、広島県呉市に生まれる。1981年に渡米、ロサンゼルスの加州毎日新聞とサンフランシスコの日米時事新聞で、日本語記者として働く。そのご、朝日新聞ロサンゼルス支局の助手、共同通信社のロサンゼルス米国法人で日本語ニュース配信マネージャーを経験。1998年7月に月刊英字新聞Cultural Newsを創刊した。Cultural News はロサンゼルス近郊の日本美術展、日本文化イベントを紹介している。最近は、デトロイトでの日本美術展やポートランドの日本庭園の紹介も行っている。月刊新聞 Cultural Newsのウェブサイトはwww.culturalnews.com

(2018年3月 更新)

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