ゲイリー・オノさん の日当たりの良いリトル東京のアパートは、ゲイリーさんの大好きな物の宝庫だ。
ダイニングテーブルの後ろの壁には古く色あせた日本画の掛け軸がかけられている。神話のイザナギとイザナミまでさかのぼっり、日本の歴代天皇が美しく配列され、描かれている。その横には5フィートほどもありそうな墨と筆で書かれた書道の掛け軸が下げられている。これは、ゲイリーさんの前にこのアパートに住んでいたタケダさんという90歳代の女性の作品だ。
その奥の壁には、日本のモノクロの芸術とは全く対照的な星条旗が掲げられている。
この星条旗(これもタケダさんから受け継いだ)は、ゲイリーさんが隣人から遺影写真の撮影依頼を受けた時に使用したもので、ベトナム戦争の退役軍人だった依頼主は軍服姿での撮影を希望した。ゲイリーさんは、全米日系人博物館に来る何年も前まではプロの写真家として活動していたのだ。その日、背景に星条旗を広げ、依頼主のバルコニーで撮影を行った。その後、一時的な置き場所のつもりで星条旗をキッチンの出入り口にかけていたが、「ある時『これはいい』と思い」、そこが定位置となった。こうしてまた一つ、ゲイリーさんのお気に入りの内装が出来上がった。
ゲイリーさんが情熱を傾けるのは日本や米国の歴史だけではない。合唱団「LA 第九を歌う会(LA Daiku)」で歌い、ディスカバー・ニッケイにエッセイを寄稿し、孫たちを連れてアマチの考古学調査に出かけ、家族の様々なストーリーも調べている。アマチには、戦時中に家族と共に収容された強制収容所がある。2001年には助成金を得て、ドキュメンタリー『コーリング東京(Calling Tokyo)』を制作した。ゲイリーさんの父親が、戦時中に英国の情報・プロパガンダ機関(British Political Warfare Mission)に協力し、日本向けのプロパガンダ放送をした時代のドキュメンタリーだ。
ゲイリーさんは、祖父スエイチ・オカムラが1906年にサンフランシスコに開いた和菓子店、勉強堂に魅了され、店について調べるようになった。1906年は、サンフランシスコが大地震と火事の災害に見舞われた年だった。フォーチュン・クッキーは、一般的に中国伝来のものと信じられているが、実は日本から米国に持ち込まれ、勉強堂が深く関わっているとゲイリーさんは信じている。スエイチ・オカムラは、日本庭園の設立・運営者である萩原眞を手伝い、フォーチュン・クッキーの味の決定と製造に携わった。また、有名なゴールデン・ゲート・パークの庭園で、クッキーの提供も手伝った。
ゲイリーさんのリサーチは話題になり、世間のフォーチュン・クッキーへの関心が高まった。ゲイリーさんは、ニューヨークタイムズのジェニファー8・リー記者の著書『フォーチュン・クッキー・クロニクルズ』や、デレク・シモダ監督の映画『The Killing of a Chinese Cookie』のインタビューに応じた。
ゲイリーさんは、『コーリング東京』をきっかけに家族史の調査を始めたが、それ以前にも自らの好奇心に導かれるまま未知の領域に挑んだ経験があった。1963年に徴兵された時、ニュース報道写真家としてのキャリアを始めたばかりのゲイリーさんは、報道写真とほとんど変わらない広報写真か、聴いたことも経験したこともない医療写真のいずれかの任務を選ぶことになり、後者を選んだのだ。
一方、ゲイリーさんはとても消極的な子供だった。1940年に生まれ、“母親のスカートの陰に隠れているタイプ”の子供だった。人前で話すことも、知らない人の輪に入っていくことも苦手だったという。高校三年生の時、殻を破る機会は今しかないと思い、バスケットボールと陸上のチームに入った。また、金光教サンフランシスコ教会のボ-イスカウト小隊58に参加し、そこでは生涯の友と出会った。それ以来、ゲイリーさんは生来の人見知りの性格と格闘してきた。5人の孫には愛情深く、面倒見の良い祖父であり、「孫たちには、やりたいことがあったら恥ずかしがらずにやるべきだということを知ってほしい」と語った。
ゲイリーさんは、孫たちが内気な性格ではないことを今ではよく理解している。孫息子のチャバがボーイスカウトのリーダーに成長していく姿に感心し、「みんながあの子を好きになる」と語る。「キャンプ旅行のとりまとめを任せられたり、みんなの前で立ち上がって話をしている。あの年齢でですよ。私だったら死んでしまっていただろうね」。チャバの妹のソラナもゲイリーさんの自慢の孫だ。チャバのようにソラナも水泳をし、一人で歌も歌う。「ソラナも物怖じしない」と誇らしげに語った。孫たちは社交的で自信に満ちている。
ゲイリーさんは妻と離婚したが、今でも良い友人関係を保ち、子供や孫たちと一緒に家族旅行に出かける。「全米日系人博物館は、ある意味離婚後の私を救ってくれました。有意義な任務を与えられ、私がここ(リトル東京)に住み続ける理由のひとつにもなっています」。博物館のお陰でドキュメンタリーの観客が増えたと試写会の場で述べたゲイリーさんは、観客を前に堂々と話をしている自分に驚いたという。
情熱という後ろ盾があれば何でもできるということにゲイリーさんは気付いた。
* 本稿は、 日刊サンの金丸智美氏がインタビューをし、そのインタビューを元に、ニットータイヤが出資し、羅府新報が発行した『Voices of the Volunteers: The Building Blocks of the Japanese American National Museum (ボランティアの声:全米日系人博物館を支える人々)』へミア・ナカジ・モニア氏が執筆したものです。また、ディスカバーニッケイへの掲載にあたり、オリジナルの原稿を編集して転載させていただきました。
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