非営利団体日系コンサーンズの生涯教育プログラム「日系ホライズン」の主催で、1世紀以上も前にモンタナ州に移住し地元社会に貢献、今も愛され続けている日本人移民の堀杢太郎氏の軌跡を訪ねる旅が企画された。同団体担当者の宇都幸江さんと瀧りえさん、JTB社のペセック美智子さんの旅程作成にかかわる努力もあり、旅行プログラムが実現できた。
ホワイトフィッシュは、気候が厳しくほとんど日本人が住まないロッキーの麓の小さな町。ふりかえれば、九州大分県から出稼ぎでアメリカンドリームを胸に秘め、ひとり太平洋を渡り辺境の地にたどりついた若者、堀氏のことを知ったのは、私がコンサルタントをしていた大阪の友人が、日本の若者に英語を学ばせる目的でアーミッシュの人たちにお願いし、建築したログロッジがきっかけだった。
25年もさかのぼるが、元駐米大使の大河原良雄氏が出席したパーティの席で歴史協会の米国人から末裔を探してほしいと、1枚の色あせた日本人の写真を見せられた。
死亡証明書から大分県出身とだけはわかっていた。私は日本経済新聞にこの勇敢な日本の青年が、明治時代になって間もなくチャールス・コンラッドというカリスペルの町を興したビジネスマンの大邸宅でハウスボーイとして働いたこと、後にホワイトフィッシュの町にホテルやレストラン、牧場、農場を開いたこと、モンタナの土となった時には、ほとんどの資産を市と所属していた教会や警察、消防署などに寄付をしたこと、今もモンタナの人々は堀夫妻の寛大な生き方に共鳴し感謝の念を持ち続けているということを記した。その記事に目をとめた当時の大分県知事、平松守彦氏の厚意で大分県杵築市出身であることがわかった。
ホワイトフィッシュの市役所正面入口には、今も脈々と堀夫妻に感謝の気持ちを伝える記念額が飾られている。米国広しといえども日本人移民がこのような待遇を受けている町を私は知らない。そんな日本人一世がモンタナにいたということをシアトルの日系人にも知ってほしく、私はオリエンテーションを行い16名の団体を組んでモンタナに旅をすることになった。
二世が大半だったが、中には父親が日本から渡米、モンタナでも特に気候が厳しいグレイシャーの麓の鉄道工事現場で、フォーマンとして腕を振るった一世たちの子供も数名いた。苦労し立派に子供たちを育て上げた親の生き様を、自分たちの目で確かめ感無量だったと思う。
第二次世界大戦前生まれであるが、戦後渡米してきた私は当地で新一世と呼ばれている。これは苦労して今の日本人の地位を米国で築きあげてくれた、戦前に渡米された一世と区別する意味や、一世たちに感謝と敬意の気持ちを伝える意味でも当然だと思う。
一世の生き様を思うと、我々はなんとのほほんと生きてきたことか。この旅行中にも一緒した日系人たちからよく聞いた日本語がある。「もったいない」、「がまん」、「しかたがない」という言葉で、謙虚な生き方、自分の身を切ってでも子供たちに教育をつけさせたかったという心意気が伝わってくる。
これらの意味をよくかみしめ、それを美徳と受け止め、私たちのような新一世は生きていかねばならないと思う。そして、願わくは私たちに続く次世代の若者たちが夢を持って羽ばたき、この自由な国、米国で活躍してほしいと願っている。
自分自身の勉強にもなったこのモンタナ一世軌跡の旅。また、行ってみたいと思う。
* 本稿は、2015年6月11日の「北米報知」(Vol. 70, Issue 25)からの転載です。
© 2015 Sam Takahashi; The North American Post