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「米國日系人百年史」を読み直す~パイオニアたちの記録をたどって

第25回 東北中央部諸州の日系人

「百年史」では、第十九章として五大湖周辺のオハイオ州、インディアナ州、ミシガン州、ウィスコンシン州の4州のなかの日本人、日系人の足跡、活動についてまとめて紹介している。本書ではオハヨー州、ミチガン州と表記されているが、ここではオハイオ、ミシガンとする。

4州まとめて約10ぺージなのでかなり少ないが、そのうち6ページをオハイオ州が占めている。

オハイオ州のなかではクリーブランド市、ついでシンシナチ市に少数の日系人が居住している。そのほどんとが会社や工場への勤務で、農業はほとんど見当たらない。

日系人の人口をみると、1900年には27人だったのが徐々に増え続け、戦争開始直前の1940年には一旦減るが、戦後は急増し1960年には3300人以上となっている。 

クリーブランドでの日系人をみると、1904年にセントルイスの万国博覧会で日本の出品物を販売したのがもっとも古いという。このうちお茶の商いをしてのちに美術展を営んだという伊藤某という人物がいた。

このほかにも丹下栄次郎(愛知県人)らが1910年ごろから日本茶販売をして、白人の女性と結婚し商売を成功させた。高級住宅地に土地を購入し日本庭園もつくったが、洋食店経営に手を出して失敗し、他へ移った。

日本茶が大流行して、お茶を扱うビジネスがいくつか登場した。1926年ごろには日本人に相互扶助のための共済会が組織されて、共同墓地が購入され墓が立てられた。


日系人の転住を促進させる

戦争がはじまると、クリーブランドに戦時転住局の地方局ができ、日系人のクリーブランドや近隣各州への転住を促進させた。カリフォルニアなどから転住して来る人たちの面倒を見た。転住斡旋につとめたのはキリスト教連盟で、「ク市日系人転住委員会」を組織し、住宅や就職口を斡旋して市民に日系人への理解を深めさせた。

また、転住局は転住した一世のために「日本語を話す会」を戦時中に設けた。こうしたなかやがて転住者は定住し、美術商や洗濯業、自転車修理、洋食店などさまざまな仕事についた。


「さむらいの娘」の著者

ドイツ系の住民が多く、対日感情は良好だったというシンシナチは、一人の日本人女性がアメリカでベストセラー作家となった場所でもある。長岡藩士稲垣家の娘、鉞子(エツコ)は、1898年26歳で渡米し当地ですでに骨董商をしていた杉本と結婚。夫妻は、地元の名望家であるウィルソン家に可愛がられ、それが縁でアメリカの出版社とのつながりができ、鉞子が著した「A Daughter of the Samurai(さむらいの娘)」が出版された。

するとこれがベストセラーになり、7ヵ国語に翻訳されて世界的に広まった。その後夫が亡くなりいったんは帰国する鉞子だが、再渡米してコロンビア大学で日本文化の講師となった。

シンシナチには陶器職人として知られた日本人もいた。山口県萩出身の城山谷老人で、美術陶器製造で有名なルックウッド・ポットリー会社に長年雇われた。アカデミズムの世界では、1918年からシンシナチ大学で助教授(生理化学)として働いた鹿児島県人の田代四郎がいる。

また、シアトル生まれのルビー広瀬はシンシナチ大学で博士号をとり一時は同大学で教鞭をとった。「恐らく日系女性博士のナンバーワンであろうといわれる」彼女は、その後マーレル化学会社で働くが、同じ日本人がしでかした不祥事に対して、申し訳ない気持ちから一年間無報酬で働いた。これは同地での語り草になったという。

戦時、戦後は転住者が入り込み、「一世の会」や日系市民協会も発足した。帰化試験準備のための帰化学校も開設された。

シンシナチのほかは、デイトン、コロンバス、トレドの各市にも、日系人は足跡を残している。


インディアナ州

州都のインディアナポリスに最初の白人の定住者が訪れたのは1820年。日本人は1908年ごろ山崎安馬が一時洋食店を経営するなど、戦前にも日本人が営業をしたことがあるが、あまり知られていない。

日米開戦後の1943年から転住者が入り込み一時は相当数に上ったが、戦後60年ごろは14、15世帯。そのうち、二世が約35人、三世が45人で一世は一人もいない。インディアナポリスは機械工業が盛んで工場が多く、居住者の大部分は工場で働き、日系人の団体はなかった。

日本人の営業としては、高吉渡米生兄弟(シアトル出身)と伊藤ベン歯科技工所のみ。一般の対日感情は良好だった。

インディアナ州の日系人は、1910年には38人、40年には29人が、60年には1095人となった。


ミシガン州

最大の都市、デトロイト市の日本人としては、「1894年当市の製薬会社パーク・デヴィス会社に自己の発明消化薬「タカ・ヂアスターゼ」製法を提供し、製薬を指導したといわれる、高峰譲吉が恐らくデトロイトへ来た日本人の草分けだろう」という。

また、徳島県出身で薬屋で小僧として働きながら渡米を夢見た下浦唯衛は1912年に渡米し、デトロイトで自動車王のフォードに見込まれて働くことになった。工場の研究室で21年間勤務し、その後フォードが南米アマゾンにゴム栽培をはじめたとき、その製法の研究に携わった。不況時に退社してからはチャプスイの材料販売と仕出し業にかわって成功した。

下浦唯衛夫妻 (百年史より)

ミシガン州の日系人は、1910年に49人、40年に139人で、60年には3221人となった。  

戦時中は特に反日的な空気はなく、むしろ日系人を保護しようという動きもあったという。このころから転住者が増え、また学生や研究生もやってきた。


ウィスコンシン州

ミルウォーキー市では、戦前からの日系人は数人で、その大部分は家庭労働者だった。戦前の日系人としてはドクター村上倫(東京)が1908年に渡米後はシアトル、ミネアポリスを経て1916年にミルウォーキーのケンプ・スミス農具会社に勤務。このころ日本人は市内に皆無。

いったん帰国後再渡米しミルウォーキーでドイツ系婦人と結婚、病院に勤めた。戦前の日本人はこの村上一家と上原オレー教授がこの地に暮らしたくらいだった。

戦時、戦後は転住者がやってきて日系市民協会も組織された。日系人は会社や工場などで働いていた。

大学の町マディソンでは、1907年ごろヘンリー・登喜らがやってきて、農場経営をはじめた。日本人は白人に非常な興味を持たれたという。

太平洋戦争に入ってからは西海岸からかなりの数の日系人がマディソンにやってきた。とくに排日の問題などなく、受け入れられた。さまざまな職業の日系人が来ては去っていったが、なかにはウィスコンシン大学を卒業して残留し活躍した人も多い。

ウィスコンシン州の日系人は1910年34人、40年には23人だったのが60年には1425人となっている

(注:引用はできる限り原文のまま行いましたが、一部修正しています。敬称略。)

 

* 次回は「ニューヨーク州の日系人」を紹介します。

 

© 2015 Ryusuke Kawai

Indiana Michigan ohio resettlement wisconsin

このシリーズについて

1960年代はじめ、全米を取材して日系社会のルーツである初期の日本人移民の足跡をまとめた大著「米國日系人百年史」(新日米新聞社)が発刊された。いまふたたび本書を読み直し、一世たちがどこから、何のためにアメリカに来て、何をしたのかを振り返る。全31回。

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