ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2015/5/7/mr-k/

「ミスターK」は北米市場に初めて「クールな」日本車を持ち込んだ先駆者

日系カナダ人やアメリカ人が日本製かどうかを気にせず、自分たちの好みに合った車を運転し始めてから、どれくらい経っただろうか。今日では、もちろん日系人は、トヨタ・レクサス、ホンダ・アコード、日産・ローグに乗っているあらゆる人種や国籍のドライバーの中にいる。しかし、日本車が北米市場に初めて登場した1960年代頃は、日系人の家族が日本車に乗っているところを「見かける」ことはなかった。

以前、私は「あなたが日系カナダ人/アメリカ人なら…」というテーマのウェブサイトを紹介した。そこにあったコメントの一つは「あなたの両親(または祖父母)が大型のアメリカ車を乗り回しているのに、あなた方の中にはアキュラ インテグラ、ホンダ アコード、トヨタ カムリを運転している人がいるなら、あなたは日系三世(または四世)カナダ人/日系アメリカ人です」というようなものだった。しかし、「ジャップとして虐待されてきた」一世や二世が、品質に関係なく日本車を運転したくないからといって責めることはできない。

1960年頃、ほとんどの北米人は(ヨーロッパ人もそうだが)、特に自動車のような最先端技術の製品は、「日本製」の消費財は一般的に安っぽくて粗悪だと考えていた。その年、日本の日産からロサンゼルスにやってきた男が、そのネガティブなイメージを永久に払拭する車を実現し、販売した。240Zは、スマートな2ドアスポーツカーで(日本ではフェアレディZとして販売された)、1969年に米国で発売されるやいなや大ヒットとなった。その伝説のパイオニアである片山豊氏が2月21日、105歳で東京で亡くなった。ニューヨークタイムズ紙の死亡記事には、彼は「Zの父と広く考えられていた」と書かれている。

日本の自動車業界誌clicccarも、片山氏の功績を「フェアレディZやダットサンブランドの他の多くの日産車の米国市場を広く確立した」と評した。また、「初代フェアレディZ(240Z)の構想と誕生に大きく貢献した功績が認められ、ミシガン州ディアボーンの米国自動車殿堂に1998年に殿堂入りを果たした。これは、非エンジニア出身者としては異例の栄誉である。」(同誌)

日産の米国事業本部はニューヨークに設立する計画もあったが、米国各地域の自動車市場を熟知していた片山氏は、ロサンゼルスに日産米国を設立することに固執し、自らの意思で進めた。そこから、紹介もなしにディーラーを渡り歩き、ダットサンを売りまくった。西から東へと精力的に営業活動を展開する片山氏の米国日産社長の名、いや愛称「ミスターK」は、アメリカ人社員やディーラーの間で広く知られるようになる。

1975年、240Zがダットサンの仲間入りを果たし、日産USAの販売台数は輸入車の中で第1位となった。しかし同年、日産本社は突如「構造改革」を発表し、K氏に代わって新社長が就任。さらに1996年には、240Z、260Z、280Z、300Zと続いてきたZシリーズを300Zで生産終了。しかし2001年、“Zカー”は日産350Zとして“復活”した(詳しくは、角川書店・荒井敏樹著『片山豊黎明』を参照)。

K氏は1935年に日産に入社し、当時の満州(現在の中国東北部)に赴任して宣伝活動を担当。戦後間もなく、当時としては斬新な「クルマをライフスタイルに」というマーケティングコンセプトを考案し、さまざまなプロジェクトを手がけた。例えば、消費者がまだ貧しかった1954年には、当時まだ新興自動車メーカーが共同で開催した「第1回全日本自動車ショー(東京モーターショーの前身)」のプロモーションに携わり、50万人の来場者を動員した。自らデザインしたギリシャ神話の若者が車輪を握るショーのオリジナルロゴは、今も使われている。

1957年、彼は3台の日産チームを率いて、19日間で1万マイルを走破しなければならない過酷なオーストラリアラリーに参加しました。日本車が海外の競争的なラリーに参加したのは戦後初めてのことでした。チームは見事に勝利し、特に排気量1,000cc以下のカテゴリーで優勝し、日産の経営陣や従業員だけでなく日本中の自動車愛好家を熱狂させました。

クルマ好きの古参の人なら、K氏の偉業を思い出すかもしれない。明治生まれのK氏は、当時の日本人はおろか、今の日本人にとっても並外れた「国境のない感覚」とクルマへの情熱、そして好奇心の持ち主だった。それは私も確信している。というのも、K氏は父と大学時代からの親友だったからだ。幼いころから、東京・千束の我が家に「豊おじさん」が頻繁に立ち寄っては、雑談をしていたのを思い出す。子どもながら、海外やクルマに関するK氏の幅広い知識に魅了され、吸収しようとしていた。

その後の人生でも、彼には大いに助けられました。1970年代初め、高校時代の旧友が住んでいたコロラド州デンバーに行き、たまたま仕事が必要でした。ロサンゼルス本社のK氏の「とりなし」のおかげで、日産が同市の国際空港近くに開設した新しい部品倉庫に倉庫係として雇われました。4年間勤めた国際通信社を辞めて、しばらくの間、パリ、スペインのイビサ、ロンドンの路上や安宿でギターを弾き、生き延びるために何でもする「ヒッピー生活」を送っていました。そのため、当時は長かった髪を(少し)切り、ダットサンのロゴが入った青いオーバーオールを着て、この倉庫に勤務しなければなりませんでした。

60kgを超えるエンジンブロックを両手で持ち上げて木箱に詰めることができて、少しうれしかったことを覚えています。また、若い倉庫作業員たちが、会社の駐車場に停まっている真新しい260Zの周りによだれを垂らしながら立っていたことも覚えています。彼らの同僚の1人が、その車を従業員特別価格で購入したばかりだったのです。

最後にひとつ疑問に思うことがある。米国の地域市場を熟知していたK氏が、なぜ1960年当初からロサンゼルスに米国事業本部を置くことにこだわったのか。当時はデトロイトの「ビッグスリー」自動車メーカーが全盛期で、東部と中西部の販売店網をしっかりと掌握していた。ロールスロイスやメルセデスベンツといった高級輸入車には一定の需要があったが、人気が高く経済的なフォルクスワーゲンですら、1960年代まで小型車市場でシェアを確保できなかった。

工業化が進む米国の大部分を占める東部、中西部、西部を見てみると、それぞれのビジネス環境に微妙ながらも明確な特徴が見られる。東部は伝統的に欧州企業との結びつきが強く、金融部門はニューヨーク、ボストンなどの大手銀行や証券会社が牛耳ってきた。一方、ドイツやスカンジナビアなどの先進国からの移民が歴史的に居住していた中西部は、エンジニアリングの伝統が強い。そのため、オハイオ州などで生産される鉄鋼に依存する自動車産業がデトロイトで発展した。西部は西部劇の開拓者やガンマンをイメージさせる言葉だが、クリエイティブ部門、すなわちハリウッドの映画産業、そして後にシリコンバレーを中心としたコンピュータ産業の最先端となった。カリフォルニアのビジネス環境の特徴は、州の中で<一人当たりの夢の数が最も多い>と表現されてきた。それはK氏の夢を叶えるのに理想的なビジネス環境だった。

*この記事はもともと2015年4月13日にThe Bulletinに掲載されたものです。

© 2015 Masaki Watanabe

自動車 ビジネス 経済学 経営 自動車(motor vehicles) 日産自動車 アメリカ合衆国 片山豊
執筆者について

東京生まれ。特派員の父と家族で英、伊生活を経験。東京で大卒後、ロンドンのロイター通信に就職。ローマ、ワシントン、パリ支局勤務後、フリーランサーに。サンフランシスコと東京勤務後、シンガポールに移住。英字紙、シンガポール経済開発庁広報部、航空会社機内誌編集を歴任。1997年にシンガポール人の妻、2児と共にカナダ・バンクーバーに移住。

(2015年2月 更新)

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