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「米國日系人百年史」を読み直す~パイオニアたちの記録をたどって

第21回 テキサス州の日系人

「百年史」は、「第十五章テキサス州」に36ページを割いている。ここで紹介されている日本人は、他のたいていの諸州の章に登場するこれまでの日本人移民と、その活動の内容が異なる。テキサスでは、出稼ぎ労働者的な移民もいるが、際立つのはおもに米作のために、日本から資本を投下して入植地を作ろうとする試みである。

入植事業にかかわったものをはじめ、初期の移民のなかで目立った活動やユニークな例などをエピソードを交えて読者をひきつけている。

こうした例を、いくつかまとめて再録するが、その前に、テキサスにおける日本人の存在の概説が書かれているので、それをまとめてみる。

日本人とテキサスの記録に残る最初の関係は、綿花取引に関わり1895年に日本綿花株式会社がテキサス綿花を直接輸入したことに遡る。しかし、それ以前に港町ギャルべストン(ガルベストン)に船乗りとしてやってきた日本人が上陸して、暮らしたと考えられる。

このほか、1899年には地理学者であり衆議院議員の志賀重昂が米国調査のためテキサス州を旅した。有名なアラモの古戦場の跡では、志賀の詩文を刻んだ石碑が建てられている。

1903年には、政友会の代議士で、同志社社長の西原清東らがヒューストン郊外へ米作のために入植、その後も州内各地に米作や柑橘の耕作のために入植者がつづき、各地で開拓がはじまり、やがてテキサスに米作ブームがおきた。

テキサス州の日本人の草分けとして、エルパソで暮らした土屋秀吉は、1885年に渡米。もともと大工で手先が器用、竹細工をエルパソやメキシコで売ってもうけたという。


内田総領事が米作のきっかけをつくる

テキサスの米作のきっかけについて。

「一九〇〇年初期にテキサス州ヒューストン市の商業会議所や州知事らが、同州発展の一策として、お隣のルイジアナ州に見習い、米作奨励を申合せ、代表者をニューヨークへ派遣し、開国以来米の国といわれる日本から米作経験者を呼び迎えたいと内田総領事に申し入れた。一九〇三年のことである」

これに応えて内田総領事が斡旋に乗り出す。これがきっかけで清原清東が興味を示し、現地を視察して、帰国後にテキサスへの移住を呼びかけるが反応なく自ら移住を決心。私財をすべて売り払い、日露戦争中のなか再渡米して土地を買うなどし、家族をはじめ名望家の子弟など20人以上の志望者を募ってヒューストンの南のウェブスター近郊に移住した。

このころ、新聞社の特派員として日露戦争をめぐるポーツマス講和会議で渡米していた大西理平も西原と相前後して米作のため入植した。このほかにものちにウェブスター近郊には日本人が入植して米作を開始した。

このうち西原清東の農園については、これを引き継いだ長男清顕とともに詳しく記されている。

清東は、1924年に米国での移民法で日本人が帰化できなくなったことに失望して、ブラジルに渡ることを決意。あとを継いだ清顕は、テキサス日本人会を創立したり、日本人共同墓地を購入したりして日本人会長として尽力した。日米開戦後は、敵性外国人としてケネディキャンプに収容されたが、4週間後には帰宅の許可が出た。日頃の信用と日米親善への功労が認められたのと、食糧増産の重要性のためとみられる。

戦後も農場はつづき、清顕の活躍は日本でもテレビなどで紹介された。

西原清顕について詳しく紹介、写真は左から清顕、清東とその妻多以子(「百年史」より)  


サツマオレンジと石油

米作ブームでヒューストン近郊に入植した日本人のなかから日本のミカンを移植して育てようという計画が生まれ、温州ミカンの苗木を横浜から大量に輸入、販売したり植えつけたりして、米作に並ぶほどの活況を呈したこともあった。このミカンは「サツマ・オレンジ」として、テキサス州からアラバマまで一時ブームを引き起こした。

「新居三郎(新潟県)は、当時殆ど毎年渡日して蜜柑苗を大阪商船の汽船によって輸入し『サツマオレンジ』はテキサス州内に数万英加植付けられた。当時日本から買う蜜柑苗は一本五仙で、それを育てて一本五十仙ぐらいに売り大きな利益をあげた」

今も残る岸コロニーの墓地

テキサス州東部のボーモント地方にも、米作熱のなか多くの日本人が入植した。そのなかで新潟県出身の岸吉松は、日本で石油業を営んだ経験があった。

「当初米作を志して渡米し、その方は成功せず、隅々所有土地から石油が噴出、種々な支障で財を成すに至らなかったが、日米両国を股にかけ日米戦前まで石油事業に携わった変わり種パイオニアの一人である」

「一時、岸はオイル成金として米人間にも評判が高く『バロン岸』の尊称で大いに羽振りをきかせたが、前景気に似合わず、油の湧出量が案外少なく大失敗に終わった」

大資本を投下して事業を行った岸は、コロニーを建設し地域にも貢献しその名を知られたが、農園もその後縮小した。


メキシコ国境のリオグランデ平原にも

テキサス州内には、以上の地の他にも日本人の足跡はあり、地方別に紹介されている。それによると、外国船が着くガルベストン港付近では、第一次世界大戦後には、船から上がった人々をあわせて約30人の日本人が居住していた。古都サンアントニオや大都市ダラスでも日本人は活動した。

また、リオグランデ川によってメキシコと国境を接する、リオグランデ平原と呼ばれる地域にも、多くの日本人は農業移民として入植した。あるものは、メキシコ側から入ってきた。

1908年に千葉県出身の宮本平四郎が入ったのが最初といわれ、その後も他州から移ってきた日本人が野菜栽培などを行った。このなかには「ヤマトコロニーの七人組」といわれるグループがある。

1919年に川畑実ほか7人が河口に近いブラウンズビルのブルーレー・プランテーションの土地を購入して耕作をはじめたが、三年目に解散した。ブラウンズビルでは1921年のカリフォルニアでの排日土地法ののち、日本人が土地視察に来たのをきっかけに「ジャップを追い返せ」という排日の動きが盛り上がった。また、日米開戦後は、FBIの取り調べが全平原の日本人家庭に対して行われた。

エルパソでは、1915年に日本人会が発足した。ここでは戦前に活躍した日本人医師がいた。

「一九二三年、テキサス州立医大で修業後に同州開業試験にパスし、翌二四年エルパソに医院を開いた古河内貞一(千葉)は、爾来同市に開業を続け、戦前戦後を通じ、民間領事といわれるほど日、墨米人間に絶大な信頼を受け、彼の医術は主としてメキシコ人が墨国境を越え、門前市をなす人気で、慈父の如く線形を受けている」

テキサス州の日系人の人口は、1900年に13人で、1910年には340人、1930年には515人。1940年には458人と減少するが、1960年には4053人とこの間で急増した。(国勢調査より)

(注:引用はできる限り原文のまま行いましたが、一部修正しています。敬称略。)

 

*次回は「中央北部三州の日系人」を紹介します。

 

© 2015 Ryusuke Kawai

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このシリーズについて

1960年代はじめ、全米を取材して日系社会のルーツである初期の日本人移民の足跡をまとめた大著「米國日系人百年史」(新日米新聞社)が発刊された。いまふたたび本書を読み直し、一世たちがどこから、何のためにアメリカに来て、何をしたのかを振り返る。全31回。