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https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2015/5/19/toshihiko-tarama-1/

「昭和の天孫降臨」と呼ばれた男・多羅間俊彦 ~世界の反対側の貴種流離譚~ その1

民俗学者の折口信夫は、芸能史や国文学を研究する中で、日本における物語文学の原形として「貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)」という概念をとなえた。

本来なら王族や貴族などの血筋を持つ高い身分にあるものが、何らかの理由で捨てられたりして家を離れざるをえず、不幸な境遇や下界に置かれ、その中で旅や冒険をして正義や何らかの力を発揮するというもの。栗本薫のヒロイック・ファンタジー小説『グイン・サーガ』もそうだが、ギリシア神話の時代からある一連の物語群だ。

そんな「貴種流離譚」のブラジル版といっても良さそうな、日本の有名人の家族や親戚が、華やかなはずの日本での生活から地球で最も遠く離れた地に移住してきている。

『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』などの耽美的な作品で有名な小説家・谷崎純一郎の実妹・林伊勢さん(故)、尾張徳川家第14代・第17代当主・徳川慶勝の孫である徳川義忠さんと妻禮子さん(あやこさんは筑前秋月藩・黒田長敬の長女、共に故人)も戦前の移住者だ。

月刊『地理』2008年10月号(古今書院)によれば、女子師範学校を卒業してから移住した、民本主義の提唱者である吉野作造の姪・吉野友子。日本に亡命したインド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボースを助けたことで知られる新宿中村屋の相馬愛蔵・黒光夫妻の三男・文雄、詩人の与謝野鉄幹の甥・素、お札にもなった新渡戸稲造の甥・太田秀敏らもブラジルに来ている。

戦後なら、第2回紅白歌合戦(1952年)の紅組司会も務めた芸能人の丹下キヨ子の娘、丹下セツコもいる。NHK国際放送など見れない時代に、芸達者な移民を集めて旅芸人の一座を立ち上げ、僻地にある移住地を慰問して歩いて日本の大衆芸能を披露し、何十年ぶりに見た老移民から涙ながらに感謝された。

多羅間俊彦さん

そんな数多くいる〝貴種〟の中でも極め付きだったのが、《一九五一年四月渡伯されたことは、「昭和の天孫降臨」と噂された位、在伯同胞に大きな感動を与えた》(『在伯日本人先駆者傳』142頁、パウリスタ新聞社、1955年12月)――と書かれた多羅間俊彦さんだ。

祖国からは一般に、「移民=くいっぱぐれ者」と下に見られがちな在外同胞社会において、彼らの存在は「ほう、いろいろな移民がいるもんだ」と思わせる部分があり、いわば華を添えるような存在感があった。


ブラジルに移住した明治天皇の孫

そんな多羅間俊彦さん(享年86、東京出身)はこの4月16日に、心臓発作のためにサンパウロ市の自宅で亡くなった。東久邇宮稔彦王と同妃聡子内親王の第四王子として生まれたという血筋のために、日系社会では「多羅間殿下」と呼び親しまれていた。

父は東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう、1887―1990)。母の旧名は泰宮聡子内親王(やすのみやとしこないしんのう)で明治天皇の第九皇女。つまり、母方からみて明治天皇の孫にあたる。多羅間さんに会った人は「お約束」の様にその血筋を尋ねた。その時、彼は「明治天皇から孫を見て一番上が昭和天皇、一番下がボクでした」という表現をよくした。

明治天皇は皇后との間に子女はおらず、側室との間に男子5人(大正天皇を含む)、女子10人の皇子女をもうけた。成人した男子は大正天皇ただ一人、成人した皇子女も房子内親王(北白川宮妃)と泰宮聡子内親王(やすのみやとしこ、東久邇妃)を除き、皆50代までに若くして亡くなっている。

つまり、生き残った明治天皇の皇子女の一番下である泰宮聡子内親王がもうけた4人兄弟の4男が多羅間さんであり、まさに本人のいう通りだ。言い方をかえれば、皇位継承する可能性は一番低い。


戦後、いち早く移住した元皇族

ブラジル到着初のインタビュー記事
(1951年4月24日付パウリスタ新聞)

正式な戦後移住開始の2年前、多羅間さんは1951年4月に、当時ごく珍しい飛行機で華々しくやってきた。邦字紙上では連日、大々的に報じられた。パウリスタ新聞4月1日付は《話題の主、渡伯の途へ 東久邇氏横浜を発つ》と来伯前から伝えはじめ、同21日付では紙面右上のトップ扱いで《踏んだあこがれの土 東久邇俊彦氏きのう着伯 一介の百姓になる》と当時の首都リオに着いた様子、同24日付では左上のカタ扱いで《朗らかな好青年 東久邇俊彦氏、元気で着く》とサンパウロに着いたところを直接にインタビューするなど手厚く報じた。

戦後初の石黒四郎総領事が赴任したのが、1951年12月。戦後初の大使・君塚慎が赴任したのが52年9月、最初の戦後移民の一団がサントス港に到着したのが1953年1月だったから、多羅間さんが来た時期が、いかに早いかが分かる。

日本が主権を回復したサンフランシスコ講和条約が51年9月であり、多羅間さんがそんな早い時期に移住する事ができたのは、ブラジル永住者の養子に入って、「家族呼び寄せ」という形をとったからだった。

養子縁組した多羅間鐵輔は、戦前に在サンパウロ総領事館に勤務して1915年に創立された「平野植民地」、大移住地建設の先駆けとなった「アリアンサ」建設などに尽力した人物だ。退官後に一移民として改めてブラジルに移住し、自らノロエステ鉄道線リンスでコーヒー耕地を経営した。

第2次大戦の開戦直後に、交換船で帰国を勧められたが「移民と一緒に残る」と決断し、42年に当地でなくなった。多羅間さんは、そのキヌ未亡人の養子となった。

ブラジルに来たばかりの頃の多羅間さん(右)、左隣がきぬさん

その2 >>

 

© 2015 Masayuki Fukasawa

ブラジル 旧宮家 移住 (migration) 貴族階級 多羅間俊彦
執筆者について

1965年11月22日、静岡県沼津市生まれ。92年にブラジル初渡航し、邦字紙パウリスタ新聞で研修記者。95年にいったん帰国し、群馬県大泉町でブラジル人と共に工場労働を体験、その知見をまとめたものが99年の潮ノンフィクション賞を受賞、『パラレル・ワールド』(潮出版)として出版。99年から再渡伯。01年からニッケイ新聞に勤務、04年から編集長。2022年からブラジル日報編集長。

(2022年1月 更新)

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