ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2015/4/30/franci/

ブラジル、アメリカ、日本で活躍する日系二世 「音楽が私の言葉」 ~ミュージシャン フランシーさん~

父との会話は日本語

「子どもの頃は引っ込み思案で、人前に出ることが苦手でした」。現在はミュージシャンとしてステージに立ち、天使の歌声を披露しているフランシーさんは、少女時代の自分自身を「みにくいアヒルの子」だと形容した。日系ブラジル人2世としてサンパウロに生まれ育った彼女は、子どもの頃にブラジルに渡った宮崎県出身の父と、静岡県出身の母との間に生まれた三人姉妹の真ん中。

物心つく頃には、父は娘たちとの会話を日本語だけに制限していた。「父にポルトガル語で話しかけると返事をしてくれませんでした」。それはすべて娘たちに日本語を身につけてほしいという親心からだった。しかもフランシーさんは現地の学校が終わると、家で制服に着替えて日本語学校に向かった。さらに夜はバレエのレッスン。家に帰り着くのは毎日午後9時を過ぎていた。

「性格はおとなしかったけれど、とても負けず嫌いでした。それは父の影響が大きいと思います」

フランシーさんの父親は34歳の時に交通事故で脊髄を損傷し、下半身不随の障害を負った。その後は座ってもできる卓球に打ち込み、2度パラリンピックに出場、事業では家具店の経営で成功した。

「私が夜遅くに宿題をやっていると、父は私の部屋に来て、ずっとそばにいてくれました。父とはいろいろな話をしました。そしていつも私を励ましてくれました」

一方、母親とはポルトガル語で会話した。「母はオープンな性格でした。人種的なバックグランドにこだわらず、誰とでも気軽に付き合いました」


ヴァリグブラジルのCA(キャビンアテンダント)として

高校生の時には日本語学校の代表で全国弁論大会に出場し、優勝した。タイトルは「言葉の力」。「ありがとう」をはじめとして、人に投げかける一つの言葉がどれほどの大きな意味を持つかについて、熱弁を振るった。しかし、出場は本人の意志ではなかった。「先生に指名されたからでした。せっかく先生が推薦してくださったのだからと万全の準備で大会に臨みました」

高校卒業後はサンパウロ大学に進学。在学中の1年間、大阪外国語大学に留学し、日本での生活も体験。その後、ブラジルに戻り、大学4年でヴァリグブラジル航空の採用試験に合格した。航空会社に応募した理由は二つ。ブラジル国内だけでなく、広い世界を見てみたいと思ったこと、そしてポルトガル語と日本語、さらに高校時代、3カ月という長い冬休みの間にアメリカで習得した英語のスキルを生かせると思ったからだ。

ヴァリグブラジル航空は、フランシーさんが入社した1990年代には国外からも応募が詰めかける人気企業だったが、数度にわたる面接と試験を通過して、正式に採用された。しかもまだ、大学の最後の1年間が残っていた。

「私は大学を卒業しなければ意味がないと思いました。それで、サンパウロとリオデジャネイロの国内便の勤務にしてもらい、終わったら大学に戻って夜の講義に出席、朝は大学寮からそのまま職場に行くという生活をしばらく続けました」

大学卒業後は、ほどなくして、ベースがロサンゼルスになり、ブラジルから転居。南米からの多数の出稼ぎ者が日本へ渡っていた時代で、フランシーさんはブラジルからロサンゼルス、さらに東京に向かう路線を担当した。しかも、ロサンゼルス経由のサンパウロと名古屋を結ぶルート開設を宣伝するヴァリグのコマーシャルに、抜擢されて出演。

自分の語学力を活かせて、忙しく、充実した日々だったが、「職業病とも言える腰痛に悩まされたこと、そして自分にはもっと他に天職があるのではないかという思いに駆られたことで、5年で航空会社を退職しました」と振り返る。


3つの国、「どこも私の場所」

他の天職とは何か? 実はフランシーさん、たまたま音楽好きな姉の影響で参加したコンクールで優勝したことがあった。その後、彼女の歌唱を耳にした日本人の音楽プロデューサーから日本に誘われたのだ。

アルバム「Symphony of My Dreams」

そして、音楽界に転身、ニューエイジミュージックのアルバムを制作し、その後出会った喜多郎さんの楽曲に歌詞を付けて歌ったアルバム「Symphony of My Dreams」はアメリカと日本で発売された。最近はブラジルのクラシック界の巨匠、アミューソン・ゴドイとのコラボレーションで、母国の音楽の復興に役立つプロジェクトの準備を進めている。

「私は幼い頃から人前に出て話すことが苦手でした。でも、今は音楽を通じて人の心にメッセージを届けたいと思います。時間をかけて辿り着いた私にとっての最高の表現方法、それが音楽だったのです」

そして今は、ロサンゼルス、東京、サンパウロの3都市を拠点に音楽活動に携わっている。一番居心地がいいのはどこかを聞いてみた。「日本ではやっぱり私はブラジル人だなと思うし、ブラジルでは陽気な典型的なブラジル人に比べるとおとなしい私は日本人的だと思えます。真ん中のロサンゼルスだと特に意識せずに暮らせますね。でも、どこも私にとっては心地よい場所です。父には、3カ所とも自分の場所にしたらいいんだよ、と言われました」。確かにそうだ。3つの国の言葉を話し、音楽というユニバーサルな表現手段を持つフランシーさんは、どこででも生きていける。みにくいアヒルの子は白鳥となり、今や世界を自由に飛び回っている。

それでも最後、「ブラジルと言うと、何を思い浮かべますか?」との問いには、少し寂しそうな笑顔で「ファミリー」と答えた。母国を離れて暮らす時間が長いからこそ、故郷と家族のありがたみが身に染みるのかもしれない。

ブラジル音楽界の巨匠、マエストロ・ゴドイと共に

* フランシーさんのウェブサイト:www.francisongs.com

 

© 2015 Keiko Fukuda

ブラジル エンターテインメント 世代 二世 多文化主義 (multiculturalism) 家族 歌うこと 言語 ポルトガル語 音楽
執筆者について

大分県出身。国際基督教大学を卒業後、東京の情報誌出版社に勤務。1992年単身渡米。日本語のコミュニティー誌の編集長を 11年。2003年フリーランスとなり、人物取材を中心に、日米の雑誌に執筆。共著書に「日本に生まれて」(阪急コミュニケーションズ刊)がある。ウェブサイト: https://angeleno.net 

(2020年7月 更新)

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