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消し去られていた戦時強制収容所の記憶をよみがえらせたグループカウンセリングの記録映画「キャンプの子供たち」

カリフォルニア州立大学サクラメント校名誉教授のサツキ・イナ(伊那五月、70歳)は、1944年5月に、カリフォルニア州のツールレークの戦時強制収容所で生まれた。カウンセリングの専門家で、収容所生活を体験した日系アメリカ人の心のケアを手掛けてきた人だ。

その伊那さんがプロデューサーとしてかかわった強制収容所をテーマにした映画が2本あることは前回のエッセイで述べ、その一つである伊那さんの両親の体験を中心とした「絹の繭から」(From Cocoon of Silk)の内容を紹介した。

今回は、もうひとつの映画「キャンプの子供たち」(Children of the Camps、1999年制作)を取り上げる。

わたしは、この記事を書くために、何度も「キャンプの子供たち」を見ているうちに、この作品は日系アメリカ人の記録映画として、ぜひ後世に残さなければならいと、思うようになった。

「絹の繭から」はドラマ仕立てで、戦時強制収容を体験した日系人の心の動きを描いているが、「キャンプの子供たち」は100%ドキュメンタリーで、登場人物に俳優はいない。しかも、映像には、演技やシナリオがまったくなく、参加者の心の動きが、そのままに記録されているのだ。

そして、日本の視聴者にとってありがたいことには、映画「キャンプの子供たち」には日本語があり、その翻訳が非常に理解しやすいことだ。

「エンカウンターグループ」は、1960年代にアメリカで広がったグループカウンセリングの名称だ。わたしは、1970年代の前半、京都精華大学教授でアメリカ文化を紹介していた片桐ユズルさんが主宰した、当時の日本では非常に珍しかった実験的「エンカウンターグループ」を体験をした。

実は、映画「キャンプの子供たち」はカウンセラーの伊那さんがファシリテーター(エンカウンターグループの用語で、司会者のような立場で、参加者が発言しやすいような場を作る役)として、子供時代を強制収容所で過ごした日系の男女3人づつ、計6人の心の動きをとらえた「エンカウンターグループ」の記録だ。

わたしが日本で参加した「エンカウンターグループ」では、わたし自身の心や参加者の心の動きがどんどん変化し、そのことに驚き、感動を体験した。その体験を言葉や文字で再現することは不可能に思われたし、ましてや、その体験を映像で記録し、映画作品として公開することなど、わたしには、思いもよらないことだった。

非常にプライベートな面が多く、映画にはなりにくいグループカウンセリングの記録が、今でも映画作品として見る人を感動させるのは、戦時強制収容体験をした人が、12万人にもおよぶこと、そして、戦争終結から70年が経った今も、心の傷を持つ人が多くいること、つまり、映画の視聴者と映画の登場人物との間に、共通理解が存在することが理由だと思う。

映画「キャンプの子供たち」のナレーションは、「この映像は1990年代はじめのワークショップの記録である」と説明するだけで、撮影の行われた場所や日時は知らされない。カリフォルニア北部の太平洋海岸らしき場所が写しだされる。ワークショップは週末の3日間にわたって行われたことが、映像を見ているうちにわかってくる。そして、ワークショップ後に撮影された参加者のインタビューが、ワークショップ進行場面の中でいくつも挿入され、参加者の心の変化を視聴者にうまく伝えている。

いつ、どこで撮影されたのか、詳しくはわからないこの映画では、参加者のプライバシーも、最小限にしか紹介されていない。

この映画のプロデューサーで、ワークショップの司会者である伊那さんですら、ツールレーク強制収容所で生まれたとしか、映像の中では紹介されていない。参加者のプライバシーをあえて公開せず、人の心の動きだけに集中するというのは、実は「エンカウンターグループ」のやり方そのものなのだ。

「エンカウンターグループ」では、参加者の自己紹介は、名前だけで、それも本名でなくてもよい。いつも使っているニックネームでなく、その場で呼んでほしいニックネームを作ってもいいのだ。

ネタばれにならない程度に、しかし、映画の登場人物に興味を持ってもらうために、6人のワークショップ参加者を紹介してみよう。登場人物の名前はすべて本名だ。

トオル・サイトウ=4歳のとき、ユタ州のトパーズ強制収容所に入れられた。母は、日本語しか話せなかった。収容所の中での母の苦しみを自分の苦しみと感じていた。戦後、収容所を出て、学校に通っていたとき、いつも「おまえは、汚いジャップだ」といじめられたが、先生はまったく助けてくれなかった。映画のなかでは、他者にたいして一番攻撃的な発言を繰り返すが、映画の後半では、トオル自身の口からその理由が明らかさにされる。

ハワード・イケモト=2歳のとき、カリフォルニア州のツールレーク強制収容所に入れられた。自分には、アメリカ人なのか、日本人なのかという迷いはなく、アメリカ人であることをいつも確信している。だからこそ、強制収容によって、自分は祖国アメリカから突き放されたという感情をもっている。

ルース・ヨシコ・オキモト(博士号をもっている)=4歳のとき、アリゾナ州のポストン強制収容所に入れられた。鋭い剣が付いたライフル銃の夢をよく見る。そんなライフル銃を見た記憶がないのに、なぜそんな夢を見るのか、いつも恐ろしくなる。戦後はサンディエゴで暮らしていた。学校ではいつも日本人だといじめられていたが、小学校4年生のとき、黒人少女が、彼女の体を盾につかって、自分を守ってくれた。

リチャード・タツオ・ナガオカ=アーカンソー州のローワー強制収容所で生まれた。戦後はカリフォルニア州ローダイで暮らしていたが、自分たち家族がこの町で唯一の日系人だった。自分の顔が日本人でなかったらいいのに、といつも思っていた。父は40エーカーの葡萄園を一人で耕作していた。父は、自分がその仕事を引く継ぐことを望んでいたが、その父の期待が自分には苦痛だった。

ベッシー・マスダ=11歳のとき、アーカンソー州のローワー強制収容所に入れられる。収容所の中で、父がFBIによって連行されたときの恐怖が忘れられない。自分は、誰かによって捨てられた子供ではないか、自分にはいつも、何かが欠けているという感情がある。

マリオン・カネモト=アイダホ州のミネドカ強制収容所に入れられていたが、日本へ戻ることを志願した一家は、彼女が14歳のとき、捕虜交換船で、日本に送られた。カネモト家は、日本で捕まっていたアメリカ人との交換に使われたのだった。アメリカで育ったマリオンにとって日本はまったくの外国で、日本人に受け入れてもらったと感じたことはなかった。

この映画の冒頭で伊那さんが説明しているが、戦時強制収容があったことを、親の世代(一世や二世)は子供たち(二世や三世)にけっして語らなかった。だから、オキモトさんのように、剣のついたライフル銃の夢を見るが、その理由がわからないという体験が生じる。ほんとうは、強制収容所でその光景を見ていたのだが、記憶としては消し去られていたのだ。

「キャンプの子供たち」は、真実を教えてくれなかった親たちを責める映画ではない。むしろ逆で、グループカウンセリングによって、消し去られた記憶を呼び起こし、自分たち「子供」の体験を理解することによって「親」の苦しみに共感し、「親」の苦しみを和らげようとしている。多くの「親たち」はすでに亡くなっている。しかし、この映画の最後の字幕には「この映画は、お父さんとお母さんのために捧げます」というメッセージが映し出されている。

 

© 2015 Shigeharu Higashi

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