ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2015/2/13/beikoku-15/

第15回 ワイオミング州の日系人

ワイオミング州というと、日本では西部劇やカウボーイというイメージを思い浮かべるのではないだろうか。かつて「ララミー牧場」というテレビドラマがあり日本でも放映され人気を博したが、このララミーはワイオミング州南東部の端にある。

米国西北部に位置するこの州と日本人、日系人について、「百年史」では、紳士録をあわせて5ページを割いている。

南はコロラドとユタ、北はモンタナ、東はサウスダコタとネブラスカ、そして西はアイダホの各州に接しているワイオミング州は、その多くが山岳地帯だ。週の北西部には名勝イエロー・ストーン国立公園が位置している。

概説からはじまり、この山岳地帯の内陸部の州で、日本人がどのような活動をはじめたかを具体的に記録している。

たとえば、同州の南東端に位置するララミー郡の都市、シャイアン(Cheyenne)についてはこう記している。

「鉄道の要衝で、米国北部畜産業の中心として有名であるだけに、米国西部劇カウボーイ映画でも親しまれてきた都市である」

ワイオミング州に最初に日本人が入り込んだのは、1903、04年ごろで、鉄道工夫がそのはじまりだった。

「一九〇五年ごろ日本人妻帯者は僅か二組のみ。当時は全く西部劇そのもので、町はワイド・オープン、バクチ場、女郎屋、バーが軒並みで、フロンテヤ気分が溢れていた」

日本人による洋食店が3軒、旅館もあった。ただし旅館といっても名ばかりで床上にマットレスを敷いてごろ寝をして、食べて寝るだけの施設だった。

日本人に対する周囲の扱いについては、排日や暴行沙汰はなかったが、高級な洋食店では日本人客を入れないところが二、三軒あり、プリンセス劇場では日本人や中国人を二階に上げて差別待遇していたという。

こうした状況は、もちろん百年史の執筆者が、直接現地で昔を知る人に取材をしたと想像できるが、いまでは知ることができない驚くような貴重な証言が数多く得られたのだろう。

再び百年史に沿ってまとめてみると――

ワイオミングでは、1900年ごろ牧畜についで鉱業が盛んで、日本人の入植も鉄道や炭坑夫がほとんどだった。当時、州の人口は9万2500人ほど。そのうち日本人は393人だったが、その後こうした労働者が増え、1910年には1503人に膨れ上がった。

「本州に日本人が入込んだのはロックスプリングを最古とし、早くも一八九八年から西山元の契約によるもので、越えて一九〇五年彼が日米勤業社系となるに及んでスヰートウォーターのフロンテヤやスペリヤ方面にも手を広げるに至っていた」

当時、炭坑や鉄道の仕事につく労働者は、今日でいえば派遣会社や元締めがいて、彼らが鉄道会社などと契約して、そこからまとめて労働者が現場に送り込まれた。日米勤業社もこうした会社とみられる。1910年ごろに日本人が働いていた炭鉱は7ヵ所で、労働者は白人の労働組合に入っていたという。

鉄道労働者についてはこうある。

「一方、ワイオミング州に於ける鉄道方面への日本人就働は、モンタナ、アイダホ、ユタ三州に比べ数年おくれ、一九〇三年に脇本、西村組が森田組と組み、UP鉄道会社と契約、ユタ州境エパンストンに二百数十名を入れたのを嚆矢として・・・」
 
ハワイやメキシコから移ってくる日本人も多かったが、1907年に「転航禁止令」がでて減少し、鉄道労働から農園の仕事や缶詰工場、あるいは農業に転ずるものが多くでた。これが同州での日本人の農業への道を開いた。

鉄道労働社の数は減ったが、1910年ごろから日本人もフォーマン(親方)に抜擢され、イタリア人やギリシャ人を使用する立場になった。

農業は、北部、東北部で少数ながら、「大農式農業」が営まれた。「農作物の耕作は、一九一九年ごろからウォーランドのパイオニヤ氏房守一兄弟によってはじめられた」。

最初にシャイアンの日本人、日系人のことを紹介したが、このほか、ロックスプリング(Rock Springs)、キヤマー(Kemmerer)、シェリダン(Sheridan)、ウォーランド(Worland)、ハート山転住所にわけて、足跡を紹介している。

ロックスプリングは炭鉱と鉄道の町で、1918年にはすでにさびれてきたが、写真館、グロサリーストア、床屋、飲食店、玉場(ビリヤード)、ホテルなど日本人経営のものがあり、「賭博、醜窟」もあった。仏教会がユタ州のソルトレークから出張で説教していた。

1923年8月14日、炭鉱爆発事故があり百数十人が亡くなり、日本人も十数人なくなった。さらに翌年も爆発があり日本人数人が犠牲となった。同じ炭鉱のまちキヤマーにはこの犠牲者十数人の墓石が町はずれに建てられた。

「(墓石のなかには)親子で移民地の辺境に散った墓石が隣合せになっているものもあり、他の百基前後の先亡者墓とともに毎年の招魂祭に清掃と花を捧げる在住日系人の感傷をそそっている」

ハート山転住所とは、太平戦争開始後に米国内につくられた日系人の収容所の一つ、ハートマウンテン収容所のこと。

「三ヵ年余に亘り最高一万数千人が収容されたことはワイオミング州日系人史上最大の出来事であった。一時急激に厖大な日系人が転住したため、隣接のパウエル市は予期せぬ戦争景気を味わったが、同地並にウォーランド地方の地元日系人は慰問や種々の世話で時ならぬ多忙な月日を送ったものである」

氏房守一氏、「百年史」より

このとき、収容所内で野菜作りを指導したのが、地元ウォーランドで農業を営む氏房守一氏だった。ワイオミング州は内陸なので、ここに住む日本人、日系人は立退きを迫られ、収容されることがなかった。氏房氏は、無報酬で指導を行い日米親善につとめた。

氏房氏の経歴がまたユニークだ。1881年岡山県生まれで、1904年にハワイにわたってからサンフランシスコに行く。その後ワイオミング州とネブラスカ州のあいだの鉄道で働くが、3年目から農業を始める。寒村でポテトとビーンズの耕作を成功させた。

日本での牛飼いの経験を生かして、原野で放牧業を牛1頭からはじめて570頭まで増やした。また、1917年に日本人として初めてカウボーイを雇った。

「一九四五年には所有する農園から石油が湧き、巨額のローヤリティが入り、ワイオミング州産業界の恩人として、日白人間に信望が厚く、地方の元老として社会に尽くしている」

キヤマーでは、福岡県出身の三宅一太郎、嘉松の両氏(兄弟)が、1941年にキヤマー・ユニオン洗濯所を立ち上げた。日米開戦で白人顧客からボイコットされ一時苦境に立ったこともあったが戦中をとして営業。

洗濯所には大きなボイラーを設置し、「このボイラーを利用してキヤマー市内にスチームヒートを供給する一方、時報の汽笛を鳴らし市民から親しまれている」

キヤマー・ユニオン洗濯所「百年史」より

国勢調査によれば、ワイオミング州の日本人は、戦前は1920年が1194人とピークで、戦後1950年には450人に減り、60年の時点では514人。

 

(注:引用はできる限り原文のまま行いましたが、一部修正しています。また、地名については「百年史」にある表し方を基本としました。)

* 次回は、「モンタナ州の日系人」です。

 

© 2015 Ryusuke Kawai

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このシリーズについて

1960年代はじめ、全米を取材して日系社会のルーツである初期の日本人移民の足跡をまとめた大著「米國日系人百年史」(新日米新聞社)が発刊された。いまふたたび本書を読み直し、一世たちがどこから、何のためにアメリカに来て、何をしたのかを振り返る。全31回。

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執筆者について

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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