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ボランティアの声:全米日系人博物館を支える人々

鮫島等さん

鮫島等さんは、1921年カリフォルニア州パサデナ市に生まれた。両親はともに鹿児島県の出身だ。日米が開戦した1941年、南カリフォルニア大学の3年生だった。日英両語が堪能な等さんは、第二次大戦中、日米両国の狭間で難しい立場に置かれた。

1942年、家族とともにアリゾナ州のヒラリバー強制収容所へ送られ、1944年にアメリカ陸軍に召集された。日本語が堪能な日系二世を中心に編成された米陸軍情報部(Military Intelligence Service=MIS)に所属した等さんは、フィリピンへ送られ、日本人捕虜の尋問を任された。「捕虜の住所も名前もわかったから、本当は日本にいる家族に『息子さんは生きているよ』と知らせたかったが、できなかった」と当時を振り返る。

戦争は、等さんのたくさんの友人の命を奪った。それ以来、戦争はなんとしてでも避けてほしいと強く願っている。

戦後になっても、日米両国間における等さんの難しい立場は変わらなかった。等さんは、進駐軍として日本に駐在し、第8軍法務監部に配属され、B・C級戦犯の裁判、いわゆる横浜裁判の法廷通訳に携わった。

法廷通訳としてかかわった裁判で、心に残っているものがいくつかあるという。日本海軍のある少佐の裁判のとき、彼を助けたい一心で、巣鴨刑務所で過去の記録を研究して法廷にのぞんだ。裁判が終わったあと、その少佐から「敵であった者のために、こんなによくしてくれてありがとうございました」という礼状をもらった。

このほか、九州帝国大学の生体解剖事件(相川事件)も印象的だった。これは九州帝国大学医学部がアメリカ軍捕虜に対して生体解剖実験をしたという事件で、5人が絞首刑、18人が有罪になった。

この事件が等さんの記憶に焼きついているのは、女性がかかわっていた唯一事件だったからだ。2人の看護婦が証言台に立ち、ひとりは看護婦長、もう一人は18歳くらいの若い女性だった。気がつくと、この若い女性は全身を震わせていた。裁判官から見えない所で、等さんが「もうちょっとの我慢ですよ」と日本語で書いて彼女に見せると、彼女の震えが止んだという。証言が終わったとき、看護婦は等さんに向かって深々とお辞儀をした。この裁判では、法律用語のみならず医学的用語が使われており、いつも辞書を引き、苦労したと振り返る。

横浜裁判で法廷通訳をする等さん(写真提供:鮫島 等)

そんな進駐軍時代、東京で妻となる歌子さんと出会った。一目惚れだった。もんぺにセーターという服装の歌子さんに米国から取り寄せた服を贈った時の、その喜んだ姿が忘れられないという。

等さんに米国に帰る指令が出たあと、二人は結婚することになった。しかし、アメリカの両親はまず単身で帰国して、どうしても結婚したかったらまた日本に戻ればいいと言ったが、等さんは聞かなかった。結婚指輪を買う暇もなく、大急ぎで東京の米国大使館で籍を入れた。婚姻の証人として、歌子さんの父親が同行したが米国大使館に入所できず、その場にいたタイピストの女性が立ち会った。

そして等さんは、歌子さんと一緒に帰国した。「東京出身の歌子は、私の両親の話す鹿児島弁に慣れるのに苦労したと思う。優しくて器量が良い女性だった」と等さんはほほえんだ。

亡くなった歌子さんについて話す等さん (写真:日刊サン)

晩年は、米国退役軍人として多くのグループに貢献した。南加MISクラブの会長を務め、南加アメリカン・ヒーローコミュニティ委員会にも所属し、2013年には 毎年正月にパサデナで行われるローズパレードの朝鮮戦争の退役軍人のフロートに乗った。そして、2013年のドジャーススタジアムで行われた日系アメリカ人コミュニティ・ヘリテージナイトの始球式に登場した。夏に開催されるロサンゼルスの二世ウィーク祭では、毎年パレードに参加した。 

JANMの仲間と一緒に踊った二世ウィークの音頭の写真を見せる等さん(写真:濱アリス)

38年間務めたロサンゼルス郡を引退後、1990年から全米日系人博物館でボランティアを始めた。

等さんは、ソニーの設立者で、全米日系人博物館の創立に貢献し1996年には博物館名誉勲章を受章した故盛田昭夫さんの「日本からの訪問者がロサンゼルスで買い物や観光するだけでなく、この地で生き抜いてきた日系一世や二世の苦労についても学んでもらいたい。そしてあなたたちには日本とアメリカの架け橋になってほしい」との言葉に感銘。日本とアメリカと2つの国籍*を持ち5人の友人を戦争で亡くしている等さんは「命がけで尽くした日系人の体験を次の世代に伝えていきたい」と心に決めたという。(*1924年以前に生まれた日系二世は、日米の市民権法の相違から二重国籍だった。)

米議会名誉勲章金メダル (2011年11月2日、ワシントンDCにて)

博物館では、戦時中とは異なり、二国間の関係をより一層深めていくために、等さんは自身のバイリンガルのスキルを役立ていた。学生などのグループを日本語または英語で案内するのはもちろんのこと、平成天皇皇后両陛下をはじめ、故小渕首相、宇宙飛行士の向井千秋さんなど、多くの著名人のガイドを務めてきた。また、全米日系人博物館でおこなわれた数々のイベントでは、戦時中の自身の体験を語り、後世に二世の体験を伝える活動にも積極的にかかわってきた。

数年前、等さんは人生で最も達成したことを三つあげてと姪に尋ねられ「大学を卒業したこと、米国軍隊に貢献したこと、コミュニティーでボランティア活動していること」と躊躇することなく答えている。2012年、等さんは米議会名誉勲章金メダルの受章した。

等さんの優しくて誠実な人柄は、他のボランティアやコミュニティを感化させ、多くの人にとって英雄的存在だった。2014年5月14日、93歳で天国に旅立ったが、彼の記憶は人々の心の中に生き続けている。

 

* 本稿は、 日刊サンの濱アリス氏がインタビューをし、そのインタビューを元に、ニットータイヤが出資し、羅府新報が発行した『Voices of the Volunteers: The Building Blocks of the Japanese American National Museum (ボランティアの声:全米日系人博物館を支える人々)』へ大西良子氏が執筆したものです。また、ディスカバーニッケイへの掲載にあたり、オリジナルの原稿を編集して転載させていただきました。

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提供:

 

© 2015 The Rafu Shimpo

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このシリーズについて

このシリーズでは、ニットータイヤからの資金提供を受け『羅府新報』が出版した冊子「ボランティアの声:全米日系人博物館を支える人々 (Voices of the Volunteers: The Building Blocks of the Japanese American National Museum)」から、全米日系人博物館ボランティアの体験談をご紹介します。

数年前、ニット―タイヤはロサンゼルスの邦字新聞『日刊サン』と共同で全米日系人博物館(JANM)のボランティアをインタビューしました。2014年末、これらのインタビューを小冊子にまとめるべく、ニットータイヤから私たち『羅府新報』に声がかかり、私たちは喜んで引き受けることにしました。JANMインターン経験者の私は、ボランティアの重要性や彼らがいかに献身的に活動しているか、そしてその存在がどれほど日系人の歴史に人間性を与えているか、実感していました。

冊子の編集にあたり、私は体験談ひとつひとつを何度も読み返しました。それは夢に出てくるほどでした。彼らの体験談に夢中になるのは私だけではありません。読んだ人は皆彼らの体験にひきこまれ、その魅力に取りつかれました。これが体験者本人の生の声を聞く醍醐味です。JANMのガイドツアーに参加する来館者が、ボランティアガイドに一気に親近感を抱く感覚と似ています。ボランティアへの親近感がJANMの常設展『コモン・グラウンド』を生き生きとさせるのです。30年間、ボランティアが存在することで日系史は顔の見える歴史であり続けました。その間ボランティアはずっとコミュニティの物語を支えてきました。次は私たちが彼らの物語を支える番です。

以下の皆様の協力を得て、ミア・ナカジ・モニエが編集しました。ご協力いただいた皆様には、ここに厚く御礼申し上げます。(編集者 - クリス・コマイ;日本語編者 - マキ・ヒラノ、タカシ・イシハラ、大西良子;ボランティアリエゾン - リチャード・ムラカミ;インタビュー - 金丸智美 [日刊サン]、アリス・ハマ [日刊サン]、ミア・ナカジ・モニエ)

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