ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2015/11/30/yae-aihara/

ヤエ・カノガワ・アイハラさん

ヤエ・アイハラさん (写真提供:日刊サン)

今日の全米日系人博物館における日本語ガイドの中で、ヤエ・カノガワ・アイハラさんは最後にして唯一の第二次大戦中に収容所での暮らしを経験した日系二世だ。他の日本語ガイド達は日本で生まれ育ったもの、または帰米と呼ばれる日本で育ち日本語を学んだものたちだ。ヤエさんは子供の時に日本語を学び始め、第二次大戦中もテキサスでも日本語の学習を続けた。

ヤエさんはワシントン州タコマで生まれ、戦争が始まったとき16歳だった。彼女の父、ショウ・カノガワさんは和歌山県出身で食料品店を経営していた。彼は主に和歌山県人会の代表として積極的にシアトルの日系コミュニティに参加し、また柔道道場の顧問や日系商工会議所の役員なども務めた。

真珠湾攻撃の夜、ショウさんはFBIに逮捕され、ニューメキシコに拘留された。残りの家族は、ピュアラップのフェアグラウンド(屋外催事場)に建てられた集合センターへ送られた。

「粗末な建物でした」とヤエさんは語る。木材は手入れされておらず、乾燥すると縮み、隙間ができた。「あれは屈辱的でした」と彼女は言う。というのも、トイレには壁やカーテンがなく、時には6人もの人が同時に同じ場所で用を足すこともあったという。

3か月後、家族はアイダホ州のミネドカ強制収容所へ送られた。売店がオープンすると、彼女はそこに毎日のように通い、1クォートのアイスクリームを友達とシェアして食べていたが、その結果彼女は激太りしてしまった。1年間ミニドカ収容所で過ごした後、日本へ戻ると約束するなら収容所から出られるし、父親とも再会できると伝えられた。

一家は、ショウさんとニューヨークで再開し、そこから船で日本へ帰るはずだった。しかし、カノガワ一家が乗るスペースはなかった。30年以上経った後、ヤエさんはその船が捕虜交換船だったことを知る。太平洋戦争中、日本は多くのアメリカ兵を捕らえたが、日本兵は死ぬまで戦ったため、アメリカは自国の捕虜と交換するための日本人捕虜が足りなかった。そのため、アメリカ政府は日本人捕虜の代わりに約2000人の日系ペルー人をアメリカへ手配し、そのうち700人が「捕虜」としてヤエさん一家が乗る予定だった船に乗せられていた。

その捕虜交換船は、ゴアで日本の船と落ち合って捕虜を交換したが、日本人捕虜の中には健康状態を理由に日本へ送られず、代わりにシベリアで強制労働者となったものもいた。彼女はそれを知ったとき恐ろしくなった。というのも、もし彼らがその船に乗っていたら彼女の兄弟たちがシベリアへ送られていたかもしれないからだ。

乗船を拒否された後、ヤエさんの家族は父親が拘留中だったためミネドカへ戻ることができなかった。家族で一緒にいるために、法務省管轄のテキサス州クリスタルシティの収容所へ送られた。そこはスペイン語を話す日系ペルー人で溢れており、ヤエさんは不思議に思った。

クリスタルシティ収容所には仏教の僧侶でもある日本語教師がたくさんおり、ヤエさんは毎日日本語学校に通った。戦後、収容所にいた人は皆25ドルと電車の片道切符を受け取り、それぞれの人生をやり直した。カノガワ家はクリスタルシティを離れ、仕事を探すためロサンゼルスへ行った。

ヤエさんが子供の頃から一世の両親から聞いた日本語は、「我慢しなさい」「仕方がない」「もったいない」などで、一番よく聞いたのは「仕方がない、日本人だから」だった。

戦前、日本人は市民権を得ることも土地を所有することもできなかった。また、日系アメリカ人は教師になることができなかった。しかし二世たちは互いに助け合って日系コミュニティを発展させ、ともに働くことで彼らの生活を改善した。

何年もの間、ヤエさんは戦時中の収容所での経験を誰にも話さなかった。彼女は自らの過去を恥じ、人に話すことを嫌った。

ある日、彼女の息子ダグが収容所での経験について質問し始めた。彼はカリフォルニア大学ロサンゼルス校の社会科学の授業で日系アメリカ人の歴史を勉強していたのだ。それ以来、ヤエさんは戦時中の話を次世代へ語り継いでいくことを決心した。

息子の質問は、ヤエさんが退職した後、全米日系人博物館でボランティアを始めるきっかけになった。彼女がクリスタルシティで身に着けた日本語スキルは大変役に立っており、また彼女は自分が家族の話を伝えていくことが、歴史の繰り返しを防ぐことに少しでもつながることを望んでいる。

(写真提供:全米日系人博物館)

 

* 本稿は、 日刊サンの濱アリス氏がインタビューをし、そのインタビューを元に、ニットータイヤが出資し、羅府新報が発行した『Voices of the Volunteers: The Building Blocks of the Japanese American National Museum (ボランティアの声:全米日系人博物館を支える人々)』へ大西良子氏が執筆したものです。また、ディスカバーニッケイへの掲載にあたり、オリジナルの原稿を編集して転載させていただきました。

Nitto.jpg

提供:

 

© 2015 The Rafu Shimpo

カナダ アメリカ テキサス バーナビー ヤエ・アイハラ ブリティッシュコロンビア 世代 二世 全米日系人博物館 全米日系人博物館(団体) クリスタルシティ収容所 司法省管轄の抑留所 アイダホ州 強制収容所 ミネドカ強制収容所 捕虜交換 日本文化センター博物館 ボランティア 活動 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所
このシリーズについて

このシリーズでは、ニットータイヤからの資金提供を受け『羅府新報』が出版した冊子「ボランティアの声:全米日系人博物館を支える人々 (Voices of the Volunteers: The Building Blocks of the Japanese American National Museum)」から、全米日系人博物館ボランティアの体験談をご紹介します。

数年前、ニット―タイヤはロサンゼルスの邦字新聞『日刊サン』と共同で全米日系人博物館(JANM)のボランティアをインタビューしました。2014年末、これらのインタビューを小冊子にまとめるべく、ニットータイヤから私たち『羅府新報』に声がかかり、私たちは喜んで引き受けることにしました。JANMインターン経験者の私は、ボランティアの重要性や彼らがいかに献身的に活動しているか、そしてその存在がどれほど日系人の歴史に人間性を与えているか、実感していました。

冊子の編集にあたり、私は体験談ひとつひとつを何度も読み返しました。それは夢に出てくるほどでした。彼らの体験談に夢中になるのは私だけではありません。読んだ人は皆彼らの体験にひきこまれ、その魅力に取りつかれました。これが体験者本人の生の声を聞く醍醐味です。JANMのガイドツアーに参加する来館者が、ボランティアガイドに一気に親近感を抱く感覚と似ています。ボランティアへの親近感がJANMの常設展『コモン・グラウンド』を生き生きとさせるのです。30年間、ボランティアが存在することで日系史は顔の見える歴史であり続けました。その間ボランティアはずっとコミュニティの物語を支えてきました。次は私たちが彼らの物語を支える番です。

以下の皆様の協力を得て、ミア・ナカジ・モニエが編集しました。ご協力いただいた皆様には、ここに厚く御礼申し上げます。(編集者 - クリス・コマイ;日本語編者 - マキ・ヒラノ、タカシ・イシハラ、大西良子;ボランティアリエゾン - リチャード・ムラカミ;インタビュー - 金丸智美 [日刊サン]、アリス・ハマ [日刊サン]、ミア・ナカジ・モニエ)

提供:

詳細はこちら
執筆者について

『羅府新報』は日系アメリカ人コミュニティ最大手の新聞です。1903年の創刊以来、本紙はロサンゼルスおよびその他の地域の日系に関わるニュースを日英両言語で分析し、報道してきました。『羅府新報』の購読、配達申し込み、オンラインニュースの登録についてはウェブサイトをご覧ください。

(2015年9月 更新)

様々なストーリーを読んでみませんか? 膨大なストーリーコレクションへアクセスし、ニッケイについてもっと学ぼう! ジャーナルの検索
ニッケイのストーリーを募集しています! 世界に広がるニッケイ人のストーリーを集めたこのジャーナルへ、コラムやエッセイ、フィクション、詩など投稿してください。 詳細はこちら
サイトのリニューアル ディスカバー・ニッケイウェブサイトがリニューアルされます。近日公開予定の新しい機能などリニューアルに関する最新情報をご覧ください。 詳細はこちら