ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2015/10/9/beikoku-30/

第30回 フロリダ州の日系人

アメリカの南東部、メキシコ湾と大西洋に挟まれ、カリブ海に突き出たフロリダ州は日本からもっとも遠い州の一つだが、日本人の足跡は意外に多く、「百年史」でもおよそ10ページにわたって紹介している。まず、概要としてこうある。

「一八九六年にフロリダ・イーストコースト鉄道が、ジャクソンビルからマイアミに貫通して以後に日本人が移住したのであった。その頃この州はスワンプばかりで交通運輸の便は極めて悪かった。従って人口も希薄であったが、右鉄道の開通で、事業家と冬季には金持ちの避寒客が殺到し一躍有名になった」

フロリダ州の日本人は、統計によれば、1900年はわずか一人。1910年が50人、1920年が106人、1930年が153人、1940年が154人、1950年が238人と徐々に増え、1960年には1315人と急増する。


大和コロニーという入植事業

この州に最初に足を踏み入れた日本人として紹介されているのは、フロリダ・イーストコース鉄道の開発に伴って、入植事業を試みた日本人で、「紐育に留学中にこの計画を聞き知った九州中津藩主の弟奥平正国と酒井襄(京都宮津出身)が前後し何れも入込んだ」としている。

これより以前にも、ニューヨークやシカゴ方面から金持ちの家僕としてマイアミに住んだ日本人があったと想像されるが記録に残っていないという。

この奥平、酒井らが中心となっておこなわれた入植事業には、ニューヨーク周辺にいた日本人や日本からはるばる参加したものがいて、大和コロニーと呼ばれた村を形成するに至った。そのいきさつと顛末がここでまとめられている。

「この米大陸東南最前線で、一九〇四年早くも入植した草分け組の奥平は八〇英加、酒井は四〇英加を共に購入し、大和コロニーと名づけ、鉄道駅も相当後年まで『ヤマト』と呼ばれていた。酒井は鉄道会社副社長イングラハムの勧めで事業拡張のため一時帰国、郷里宮津から実弟神谷為益、沖、辻井ほか十数名を引き連れて帰米、さらに二年後には同じ京都府下から森上助次、山内甚蔵、一九〇七年には小林秀雄(何れも現住者)らが次々に後を追うて渡米、この辺境新天地へ入植した。」

このあと、コロニーはフロリダへの移住熱も高まって、1910年前後の全盛時には100人を超えていた。最初はパイナップルがつくられたが、安いキューバ産に押されて不利になったため、トマトやピーマン、ナスなどがつくられ、これらはニューヨーク、シカゴ、のほかデンバーや遠く西海岸まで出荷された。

現地には夫婦同伴で入植してきたものもいて、また、子供たちも誕生した。

他州の大寒波のなかで野菜づくりは一時はかなり好成績を上げたが、その一方でフロリダに土地ブームが起き、気象条件の厳しいなかでの農業を見限り、土地を手放して他州に移ったり帰国したりする者もいた。

「越えて一九二五年に今のマイアミビーチが開け、土地の大ブームが起こり、只に近い安値で買った土地が朝に千弗、夕には二千弗、翌朝は三千弗、その晩は四千弗というドエラい値上がりで、土地を所有した日本人の大部分は手放し帰国するか、他州へ移ったものが多く、次第に日本人の数は減り、爾後農業としての大和コロニーはふるわず、そのうちに都市化したため転業したした者が多く・・・」


開拓者、森上助次 

森上助次「百年史」より  

「百年史」がまとめられた時点ではコロニー跡には一家族のみが暮らした。このほかコロニーの外へ移り最後まで農業をしていた人物に森上助次(ジョージ・モリカミ)がいる。のちに現地に土地を寄贈し、それがもとで日本庭園を含む公園が誕生している。この森上について詳しく紹介されている。

京都府宮津の出身で1906年に渡米して、コロニーに参加し、途中公立学校に通い英語を学び、耕作だけでなく仲買業にも乗り出し成功した。農業の一方で少しずつ土地を購入し、それが時代と共に地価が上昇し一大財産を成すに至った。

事業は成功したが、ひとり暮らしをつづけ生活は極めて質素だった。

「~今も開拓時代の生活とほとんど変わらず、日本人村跡の老屋に住んだり、時にホテル、或はトレーラーで、極めて質素な簡易生活に甘んじ、(中略)一見世俗的には『変人』の如くであるけれども、古い居住者からはよく理解され・・・」

森上はまた郷里の小学校新築には数十万円を寄付した。 

熱帯、亜熱帯気候で湿地と原野のフロリダでの開拓については、いくつかエピソードが紹介されている。蚊の大群がいかに恐ろしいかという話で、ときに前が見えなくなるほどで、牛は口のなかに蚊がいっぱいに入って窒息死し、馬は血を吸われて死に物狂いで走るほどだという。

また、中部の大西洋岸のデイトナ・ビーチには戦前大山という日本人がいて、当時一漁村だった土地に目をつけて何とか安く土地を購入しようとして幽霊芝居をした。

「夜な夜なその土地のあちこちにお化け姿で出没し、それが噂になって買い手がつかなくなったところを、二束三文でたたき買い占めた。戦前この町に大山ブロックと呼ばれるところがあり、二十数軒の店舗が並び誰が見ても百万長者になった。しかし、好事魔多し、後にお金が目当ての米婦人と結婚したのが運のつき、仕組まれた他の女と同きん中を写真に撮られ、財産を横取りされ、元の如く無一文でどこかに去ったという」

大和コロニーのほかにクレー郡のミドルホークにコロニーが日本人の手で計画され、1913年、カリフォルニアから日本人が集団で入植し、野菜の耕作をはじめようとした。しかし、土地の質の問題と、交通の便の悪さでまもなく解体した。

このほか州内の日本人の足跡として、マイアミ周辺やメキシコ湾岸のセントピーターズバーグなどでの動きがある。マイアミ市では1905年ごろから宮永という名の日本人が日本美術店を開いたのが草分けだという。

セントピーターズバーグでは、1922年ごろから日本雑貨店が登場し、30年ごろには「日光イン」という洋食店もでき、日本人会も組織されたが日米開戦で解散した。


マイアミビーチ開拓に貢献

マイアミの東、マイアミ・ビーチではその開発にあたって、二人の日本人が貢献したことが記されている。神奈川県出身の田代重三と須藤幸太郎が1916年に、カール・フィッシャーという有名な事業家のもとで働きはじめ、当時ただの原野と湿地帯の造成事業に関わった。ともにのちに独立して植木園などを経営して成功し地元に貢献した。百年史では、森上につづいてその功績を大きく紹介している。

日本人女性でユニークな人がいた。「百歳の須藤女医」として紹介されている。

「聖クラウド市に青森県弘前市出身、当年百歳でしかも在米最初の女医須藤かく老女史が健在。一八九一年に渡米、東部で勉学、女医となり日本を度々訪問、一九〇七年に渡米して以来、ずっとフロリダ州に住みついた。その時弟成田一家を伴い渡米、その子供五人を全部養子として育て、長女ジーンと結婚した吉田源五郎と同居し、他の子女は米国各地で一家を成している」

(注:引用はできる限り原文のまま行いましたが、一部修正しています。敬称略。)

 

* 次回(最終回)は、「南部沿岸諸州の日系人」を紹介します。

 

© 2015 Ryusuke Kawai

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このシリーズについて

1960年代はじめ、全米を取材して日系社会のルーツである初期の日本人移民の足跡をまとめた大著「米國日系人百年史」(新日米新聞社)が発刊された。いまふたたび本書を読み直し、一世たちがどこから、何のためにアメリカに来て、何をしたのかを振り返る。全31回。

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執筆者について

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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