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ニッケイ物語 4—ニッケイ・ファミリー: 記憶、伝統、家族観

米寿を迎えたジョージ・ナカムラ

写真1:ジョージと妻のテリー、子供や孫たちと共に米寿のお祝いにて(写真:ヴィンス・ノグチ)

 

今年、私たちは米寿を迎えた父のために盛大なお祝いの会を開きました。88歳を迎えることは昔ほど珍しくないかもしれませんが、それでも88歳という年齢には、特に日本文化では、特別な意味があります。88歳は日本では「米寿」と呼ばれ、直訳すると「米の年」という意味になります。漢字で「八十八」と縦に書くと、「優良」や「豊富」の象徴である「米」という字に見えるからです。私たちは、父が今回のパーティーを十分に楽しめるくらい健康でいてくれていることをとてもうれしく思いました。今回のお祝いの会を記念し、私は本人の記憶を元に父のこれまでの人生をまとめました。


ブリティッシュコロンビア州ソルトスプリング島

ジョージが生まれたのははるか昔のことで、このエピソードは謎に包まれています。父の出生証明書には1927年6月7日生まれと記されていますが、父の母親は、その1カ月前の5月7日、苺の収穫の時期に生まれたといつも言っていました。医師の知人から、病院で生まれた父の出生届けに間違いはなかったはずだという指摘を受けるまで、私たち家族は長い間父の誕生日を2回祝っていました。

そのようなことは父の母、タキがよく知っているだろうと思うかもしれませんが、そう簡単ではありません。ジョージは7番目の子供です。母親に記憶違いがあった可能性は否めません。そして両親は、順番をつけるかのようにジョージに山口弁で “7番目の子供” という意味の「ヒチロウ」という日本名を付けました。英語名のジョージは、当時の英国国王の名前からとりました。おそらく国王の写真が、父の生まれたソルトスプリング島のレディー・ミント病院の病室の壁に掛けられていたのでしょう。

父親の膝の上に座るジョージ、1928年頃ソルトスプリング島にて(ナカムラ家所蔵)

ジョージは、ソルトスプリング島の10エーカーの農場で育ちました。働き者の父シンキチは野菜を育て、洗濯業を営み、木を伐って生計を立てていました。母親は、密造酒を季節労働者に販売していました。残されたジョージは妹のハルと、砂場で3本の釘が刺さった木片を車にして遊んでいました。

ジョージの幼少期の友人のほとんどは白人で、Hippo(カバ)、Cow(ウシ)、Spider(クモ)といったあだ名がつけられていました。ジョージは、ポパイに出てくる超能力を持ったキャラクターの名「ジープ」と呼ばれていました。彼は車が大好きで、今はもう存在しませんが、デュラント、ウィペット、ナッシュ、デソート、ハドソンといった車の名前を全て知っていました。

ソルトスプリング島の1年のハイライトは、7月1日にガンジスのフェアグラウンド会場でおこなわれるお祭りでした。このイベントには羊の毛刈りコンテストなどがあり、ジョージが一番注目していたのは子供レースでした。ジョージや他の貧しい子供たちが狙っていたのは賞品の商品券で、地元の店で新品のスニーカーなどに交換することができました。

10歳位になると、ジョージは毎週土曜日、英国人の家で働き始めました。1時間10セントで畑の石を拾う仕事でした。楽しみは10時と3時のお茶の時間で、牛乳とクッキーをいただきました。今はもう働く必要はありませんが、今でも10時と3時のお茶の時間を楽しんでいます。

ちょうどその頃、ジョージのお父さんが病気になり、故郷の山口県大島に帰りました。そして1938年、喉頭がんで亡くなりました。ジョージがニイサン(兄さん)と呼んでいた17歳年上の長兄ビルが家長になりました。


ブリティッシュコロンビア州ビクトリア

それから約1年後、ビクトリアでクリーニング店を開業していたニイサンは家族を呼び寄せました。ジョージ、母、そしてハルは、ニイサンとニイサンの奥さんと赤ちゃんと一緒に店の裏の2部屋付きのアパートで新しい生活を始めました。

ジョージはセントラル中学校に通い、通常の授業が終わると日本語学校に通うのが日課でした。この学校は、日系人合同教会の牧師であるオグラ氏と夫人が経営していました。ジョージはそれまで日本語を勉強したことがなかったので、小さい子供たちと同じクラスに入りました。

ビクトリアの日曜学校にて。ジョージは後ろから2番目の中央(アン=リー・シュワイツァー提供)  

夏にはビクトリア郊外にあるカクノという日系人が経営する農場で野菜の収穫をしました。お金を貯めて自分用の大切なラレー自転車を買い、日曜学校が終わると友達と一緒に乗り回しました。

1941年12月上旬、日本の真珠湾攻撃のニュースを家族と共にラジオで聞きました。ジョージは学校に行くことを禁止され、日本語学校は閉校になりました。ニイサンは、お店やその他売れる物全てを買い手の付け値で売り払いました。1942年4月、72時間以内の退去命令が出されました。ビクトリア在住の約200人の日系人同様、ジョージは手荷物として許容されたスーツケース1つに荷物を詰め、バンクーバー行きの船に乗り込みました。そしてヘイスティングスパークに先に収容されていた数百人の日系人に合流しました。どういうわけか、ジョージは自分の自転車を持ち込むことができたそうです。


ブリティッシュコロンビア州ヘイスティングスパーク

ジョージは、13歳から18歳までの少年たちと共にヘイスティングスパークの展示用の建物に収容されました。この建物は今でもパーク内で展示会場として使われています。未加工の木材で作られたベットがいくつも並び、その一つに藁を詰めたマットレスをひき、粗末な灰色の毛布を掛けて眠りました。ジョージは食堂で食事をとり、二世の大学生の指導の下、通信教育を受けました。ビクトリアから来た他の少年たちと一緒に遊ぶことは、ジョージにとって大きな冒険でした。彼らは許可を得て、日系人の中心地だったパウエル通りに時々出かけて行きました。グーグルマップを見る限りでは、パウエル通りまで1時間はかかりそうです。


ブリティッシュコロンビア州ポップオフ

1942年9月、ジョージの家族は固い座席にゆられて長くて煙たい汽車の旅を終え、ブリティッシュコロンビア州内陸部のスロカーンに近いポップオフ収容所に到着しました。外壁に生木の羽目板が張られたにわか作りの小屋が何百棟もあり、一家はそのひとつに住みました。梁と敷板の間にはタール紙が貼られているだけで、冬場は凍えほど寒かったようです。およそ2.5×8.5メートル四方の小屋には3部屋ありました。そのうちのひとつの部屋には3つの2段ベッドがあり、ジョージ、母、2人の姉妹、兄弟3人で共有し、その反対側の部屋ではニイサンの家族が寝ました。2つの部屋の間には共有のキッチンがありました。調理用薪ストーブがあり、電気は通っていましたが水道はなく、料理や後片付けのための水は運んで来なければなりませんでした。トイレは小屋の裏にありました。

ジョージは毎朝1.6キロ程歩き、スロカーン市のアサンプション修道女会の高校に通いました。修道女達は親切で、ジョージは多くを学びました。収容所では少年団に参加し、後に柔道やその他の活動をすることになるコミュニティ・センターの建設を手伝いました。

1945年、ジョージ自身も建設を手伝ったポップオフのコミュニティ・センターの前にて、後ろから2列目、右から2番目が柔道着を着用しているジョージ(ナカムラ家所蔵)


オンタリオ州チャタム

1945年に日本との戦争は終わりましたが、日系人の権利はその後も制限されたままでした。連邦政府は日系人に、ロッキー山脈より東側の岩ばかりの土地に移動するか、日本に渡り過酷な環境で生きるか、そのどちらかの選択を強いました。ジョージの家族はカナダで大変な目に遭いましたが、それでもカナダに留まることを選びました。ジョージは家族のその選択に安堵しました。一家はオンタリオ州チャタムの農場で働くため、国を横断しました。家族全員が農場に雇われ、テンサイなどの作物を収穫する、ひどく骨が折れ、汚れる仕事を始めました。ジョージはいつも自分が汚れているような気がしていましたが、少なくとも一家にはいつも十分な食べ物がありました。


オンタリオ州トロント

1949年、日系人の移動がようやく自由になり、一家はニイサンがトロントに見つけた3階建ての9部屋の家に引っ越しました。にぎやかな場所でした。ジョージは銀製食器の会社で仕事を見つけ、働きながら刻印や鋳型製造の技術を身に付けました。

1961年1月28日、ジョージは人生で最も大切な日を迎えました。テリー・ヤマシタと結婚したのです。ジョージとテリーの最初の出会いは1949年でした。テリーとは、ハルミ・トモツグという兄ゴードが当時付き合っていた友人を通して知り合いました。最初は、2人の関係はうまくいきませんでした。シェイクスピアの台詞、「真実の愛は穏やかには進まない」のとおりでした。8年後、葬儀で偶然再会した2人はもう一度やり直すことを決め、この時はうまくいきました。2人が今でもよく葬儀に行くのはこのためかもしれません。2人はハワイのハネムーンで散財し、トロントに戻るとその支払いのために慌ててお金をかき集めました。

1961年ハワイにて新婚旅行中のジョージとテリー(ナカムラ家所蔵)  

2人は1962年から66年の間に4人の男の子に恵まれました。忙しい時代でした。ジョージは義兄弟のキイチから会社を買い取り、アクリル埋め込み加工の会社を始めました。会社名をクレアモント・プラスティックスとしました。クリスタル・アート・スクエアという幸先の良さそうな名前の路地にある、55平方メートルほどの3部屋付きの場所を借りました。テリーには事務能力があり、経理システムを立ち上げる準備もできていました。初めのうちは鋳型製造と刻印の仕事で収入を得ていましたが、新しい会社の仕事の発注を受けるようになると、長兄ビルのところに住んでいたジャック・ワタナベと義兄弟アサキチ・アシザワを雇い、その後長く続くことになる家族経営が始まりました。

家庭でのジョージは、一部改造済みのスクールバスを購入し、キャンピングカーに作り直し、家族で旅行を楽しみました。サンドバンクス州立公園、グレイブンハースト、ニューブランズウィックまで足を延ばすこともありました。

会社が成長すると、ジョージはダンフォース・ロードとヴィクトリア・パーク通り近くのマスグレーヴ13丁目に新たな拠点を構えました。約280平方メートルの広大なスペースですが、カナダ建国100周年記念コインが製造された1967年は、記念品小売業の景気は良かったのです。

激務には “副作用” が付いてきました。ジョージは潰瘍を患い、1969年にニール・アームストロングが月面歩行をしていた時、胆のう炎に苦しんでいました。最近の手術は昔と比べるとずっと良くなっていますが、当時の手術はジョージの胸からへその下までファスナーのような傷跡を残しました。

マスグレーヴで7年を過ごした後、工場一帯が売りに出されたという噂がある中、ジョージはリバー通りとクイーン通り沿いに新たな拠点となる建物を見つけました。改修工事は骨の折れる仕事でしたが、運よく日系の建設会社とつながっていたジョージは、順調に会社を移転することができました。

1980年、トロント日本語学校のツアーでジョージは家族と共に日本へ行きました。初めての日本でした。ジョージの両親が生まれ育った山口県の村に足を運び、今でも山口で暮らす親戚に会い、亡くなった人のお墓にも行きました。そして地元のお寺の天井に中村家の家紋を見つけました。

1988年、第二次世界大戦中にカナダ政府が日系カナダ人に対して行った不当行為への補償に関する取り決めが行われ、ジョージとテリーは補償金を使って家族をイギリス旅行に連れて行きました。ジョージにとっての旅のハイライトは、スコットランドの由緒あるセント・アンドリューズでのゴルフでした。ハンデ15でスコア86を出し、スコアを刻んだ記念の盾を作りました。

その翌年、ジョージは25年経営した事業を売却し、喜びを噛みしめていました。62歳という熟年で引退し、テリーと余暇を楽しむ生活を始めました。2人は熱心に旅行に出かけました。エジプトや中国、オーストラリアなど、世界中のたくさんの国を訪れました。最近は、旅に出ることはままならなくなってきましたが、今でもボウリングやゴルフをしたり、キッチンで老犬に芸を教えたりしています。今回の米寿のお祝いの席で父は、皆を99歳の誕生会に招待してくれました。 

* 本稿は2015年夏、Nikkei National Museum & Cultural Centreによる「Nikkei Images」(Vol.20, No.2)に掲載されたものです。

 

© 2015 Raymond Nakamura

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このシリーズについて

ニッケイ・ファミリーの役割や伝統は独特です。それらは移住した国の社会、政治、文化に関わるさまざまな経験をもとに幾代にもわたり進化してきました。

ディスカバー・ニッケイは「ニッケイ・ファミリー」をテーマに世界中からストーリーを募集しました。投稿作品を通し、みなさんがどのように家族から影響を受け、どのような家族観を持っているか、理解を深めることができました。

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  • スペイン語:
    父の冒険
    マルタ・マレンコ(著)

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