ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2015/04/06/

第二章「集合所」という強制収容所: 1942年春から秋にかけて (6)

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5. 図書館設立にむけて

各収容所で図書館をつくる動きがはじまります。ピュアラップ仮収容所の図書館設立に関わったマーガレット・ババ・ヤスダは当時十七歳でしたが、その過程を「草の根運動、ボランティア活動、(なんにもしないで)キャンプで腐っちゃうより何かしなきゃ、とみんなが考えた結果」と言います。タンフォランとポートランドの仮収容所図書館の場合をメアリー・オギがライブラリー・ジャーナル(1943年5月1日号)に寄稿した記事とツボイ姉妹のレポートに沿って設立当時の様子を追ってみます。


タンフォラン仮収容所図書館2

仮収容所に入って最初の数日は、みんな(過酷な状況に)うろたえた混乱の状態です。でも、なかにはすぐに率先して、人々の苦しみをやわらげる方法を考える人もいました。ミルズ・カレッジ卒業生のキョウコ・ホシガもそのような一人でした。身体的な苦しみではないんです。収容者はみんな、ここでは今までのような安楽さや便利さは望めないのはわかっていましたから。でも、7,800人の人が、知的で精神的な激励と刺激を求めていました。

ホシガ自身はだれが始めに図書館をつくることをすすめてくれたのかは覚えていません。どうやって進めていったらいいのかもわかりませんでしたし、自分でする自信なんてありませんでした。でも、ミルズ・カレッジ図書館のエブリン・スティール・リトル司書からの寄付やアドバイス、励ましを受けて、ただ前に進んでいました。」と、話しています。3

収容者から寄付された65冊の蔵書と雑誌を床の上に並べて、5月4日に図書館オープン。なんと、ホシガがこの収容所に着いて7日後です。子どもの本は絵本四冊とコミックブック10冊だけ。まだ、本のカタログも出来ていないし、棚や備品もない状態でしたが、今すぐ本を提供する必要性を優先したのです。

子どもたちにとって、図書館はキャンプの中で最も収容所らしくない所の一つでしたから、子どもたちが図書館に集まるようにいろいろな工夫がなされました。図書館員は庭仕事にまで手をそめ、図書館の入り口の殺風景なバラックの壁一面に朝顔を咲かせたり、小学生たちが先生と一緒に図書館にやって来て司書と親しくなるような機会をつくったり、土曜日に読み聞かせの時間を設けたりしていました。同じキャンプで小学校の先生をしていた、ヨシコも読み手の一人でした。

オギは、収容所内図書館の第一の目的は、収容所内のモラルを維持すること、非行に走る傾向の防波堤になること、子どもたちに有意義な時間を過ごす方法を提供することで、通常の娯楽や勉強のための本の貸し出しは二の次だったと記しています。

6月、軍は日本語で書かれた本や雑誌を禁制品とし、没収しました。一冊あった菊池寛の小説もとても需要が高かったのですが、取り上げられてしまいます。一世は「本に関しては孤児になった」状態です。

その後、心をよせてくれている司書のいる図書館や学校から本が届き始めます。サンマティオ・カウンティ図書館のクララ・B・ディルズ司書は何回も訪ねてきて、400冊以上の廃棄処分本をもってきてくれました。9月1日の時点で、蔵書は6,000冊になっていました。

けれども、また、旅立ちの準備が始まります。本棚から丁寧に釘をぬき、木材を外し、それを利用して今度は木箱をつくり、本を詰め、次に行く強制収容所におくるのです。


ポートランド仮収容所図書館4

5月、ポートランド仮収容所の中でも、図書館設立にむけての動きが始まっていました。強制立ち退き直前までポートランド市立図書館でページ5をしていた二世のツボイ姉妹のヤスコとハルコです。ポートランド図書館協会は、立ち退きの噂が立ちはじめたころから、立ち退きが数日以上になる場合は本の援助をすると約束していたので、スムーズに行くかと思えた図書館設立ですが、大きな障害が二つありました。一つは、戦時民間人管理局にとっての、レクリエーションの主な目的が、不平不満をいう元気もないほど身体を疲れさせるためだったことです。野球、バスケットボール、バレーボール等が注目を浴び、それにくらべれば、図書館はあるに越したことはないけれど、明らかに贅沢だと消極的な態度でした。もう一つは、木材の不足。それで、図書館設立の許可を得るのと、棚をつくる材料の手配をしてもらうのがむずかしかったのです。

オレゴン州ポートランド仮収容所図書館、1942年 (写真:フラハティコレクション。日系収容所記録。サンノゼ州立大学図書館、スペシャルコレクション&アーカイブ所蔵)

一週間、いろいろな部署をまわって協力を訴えましたが、効果がなく、結局エミル・サンドクイスト所長に直訴することにしました。何百人もの子どもたちが、することもなく無為に時間を過ごしていること、地域の図書館の協力は得ていること、私たちはもう一度図書館で働きたいと思っていることを力説し、今必要なのは少しの棚だけ、と説明すると、興味をもって聞いてくれていた所長は、すぐに棚をつくるように指示してくれました。

5月14日金曜日、まだ棚は完成していなかったのですが、ポートランド図書館協会から1,000冊の本が届きます。本をみた人たちは、口々に「一冊でいいから」「すぐに持ってくるから」と訴えたので、待ってもらうのが大変でした。なんとか、夕方までには棚もでき、本のカタログもでき、次の日の土曜日の午前中に本を棚にならべ、午後から本の貸し出しを始めました。正式には5月16日オープンですが、「今、みんなには本が絶対に必要」と思ってのことでした。一週間目のおわりには、図書館の棚の本がすべて無くなるぐらいの大盛況で、すぐに子どもたちがこの図書館の一番の利用者になります。遊ぶこと以外何もすることのない子どもたちは、一日に何回も図書館を訪れ、多くの子どもたちは一日に二冊は読んでいました。子どもの本が400冊あったのですが、そういう事情で子どもの本の貸し出し期間は一日だけになりました。

ツボイ姉妹は、一週間目にうけた熱狂的な支持で、収容者の精神的な糧としての適切な本の必要性を確信します。ふつうに仕事をしていた日常から、突然なにもすることのないキャンプに投げ入れられたのですから、身体的な活動ばかりでなく、精神的な活動も欠くことができなかったのです。サンドクイスト所長も、図書館設立を「このキャンプでこれまで起こった一番いいこと」と述べています。ポートランド図書館協会は仮収容所図書館を分室のように考えていて、本の配達を毎週予定していましたが、戦時下でガソリンとタイヤに制限がかせられたため、本の配達は月に一度になりました。6

ツボイ姉妹のレポートは、収容所内の人々の年代にもふれています。3,500人の収容者のうち1,000人が親の世代です。収容された人々の平均年齢は17歳から19歳ですから、二世の若者や子どもが大多数です。大学卒が55人、立ち退き前までは大学生だった人が75人、ある時期大学に通っていたことがある人が40人。それから高校を卒業したばかりの学生のうち、約200名は学生転住委員会7を通じて、秋から大学に行く申請をしています。これらの数字から、アメリカの同じ規模の町と比べても、日系人は平均以上の高学歴だと言えます。

秋、内陸部にある「転住所」に移る日が近づいてきました。「今度は10,000人の大規模なコミュニィティですから、今まで以上に難しい問題があるでしょう。しかし、また本を手にいれることができ、新しい図書館を作れるように希望します。最後に——ポートランド図書館協会の助けがなければ、この図書館は実現出来ませんでした」との感謝の言葉で、ツボイ姉妹のレポートは終わっています。

第三章>>

 

注釈:

1. Wertheimer, Andrew B. Japanese American Community Libraries in America’s Concentration Camps, 1942 – 1946. [Doctoral dissertation] University of Wisconsin-Madison: 2004.

2. Ogi, Mary. The Tanforan Assembly Center Library. Library Journal. Vol. 68, May 1 1943.

メアリー・オギは、収容所を出てから、デンバー大学で図書館学を勉強しました。この記事はその時期に書かれました。     

3. Wertheimer, Andrew B. Japanese American Community Libraries in America’s Concentration Camps, 1942 – 1946. [Doctoral dissertation] University of Wisconsin-Madison: 2004.

4. Tsuboi, Yasuko Fukano. “Yasuko Fukano papers” 1942, University of Washington Libraries Special Collections.

5. 蔵書を書架に戻したり、書庫から本をもってきたりする、主に学生がする仕事。

6. ポートランド図書館協会一九四二年度報告書では、「日系人の立ち退きが始まる前から、仮収容所にどのように図書サービスを提供するか計画を立てていました。以前ページをしていた優秀な二人が、仮収容所図書館で成人と子どもの本の司書として、仕事をしてくれたのは幸いでした。特別に用意された部屋に仮収容所に送る本をいれて待機していました。本の取り寄せサービスも始めました。本が沢山読まれ、次のレポートにあるようにこころからの感謝の気持ちに接すると、本を提供して本当によかったと思います」とあります。次にヤスコ・ツボイのレポートが続きます。「軍の役人によると、ここは市立図書館から定期的に本の提供をうけ、十分な図書を有する唯一の仮収容所図書館だそうです。大工、看板書き、病院で働く人、先生、レクリエーション指導員等みんな今迄とは違った仕事についた人々は、新しい仕事に関する本をリクエストしています。勿論、小説が一番読まれていますが、時事問題にはあまり関心がないように思います。……今迄あまり本を読むことの無かった人も余暇に本を読むようになられたのは嬉しいことです。学生は特に本の取り寄せサービスに感謝しています。」

Personal communication with Matt, Librarian, Information Services, Multnomah County Library, April 10, 2013 .

7. クエーカー教の団体アメリカ・フレンズ奉仕団(AFSC)による収容者の大学入学支援活動委員会

 

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第134号(2013年7月)からの転載です。

 

© 2013 Yuri Brockett

アメリカ ポートランド カリフォルニア 一時収容センター 子どもたち オレゴン州 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所 タンフォラン集合センター
このシリーズについて

東京にある、子ども文庫の会の青木祥子さんから、今から10年か20年前に日本の新聞に掲載された日系の方の手紙のことをお聞きしました。その方は、第二次世界大戦中アメリカの日系人強制収容所で過ごされたのですが、「収容所に本をもってきてくださった図書館員の方のことが忘れられない」とあったそうです。この手紙に背中を押されるように調べ始めた、収容所での子どもの生活と収容所のなかでの本とのかかわりをお届けします。

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第133号~137号(2013年4月~2014年4月)からの転載です。

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執筆者について

東京での大使館勤務後、夫の大学院留学のため、家族で渡米。ニューヨークでは子育ての傍ら大学で日本語を教え、その後移ったシアトルではデザインの勉強。建築事務所勤務を経て現在に至る。子どもの本、建築、かご、文房具、台所用品、旅、手仕事、時をへて良くなるもの・おいしくなるもの…の世界に惹かれる。ワシントン州ベルビュー市在住。

2015年2月 更新

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