第5回 「南部加州の日系人 ~ その1」を読む >>
アメリカにわたった日本人は、出身地や宗教、職業などを基準として多くの団体を組織していくが、その一つにロサンゼルスでは「南加中央日本人会」という組織が早くに誕生、さまざまな分野で戦争直前まで活動をつづけた。
「米國日系人百年史」第二章の「南部加州」では「第三節 南加中央日会の足跡」として、日系移民がまとまって相互扶助や権利の向上、そして生計の安定などのために奮闘してきた歴史をまとめている。
そのなかからおもだった動きを紹介したい。
南加中央日本人会は、1915年9月1日に発足。「同会は一九一一年度から在米日本人会代表者会へ代表者を送り、羅府日本人会を中心に漸く激化してきた加州排日土地法対策その他諸般の問題処理に当った。一九一四年四月九日南加各地の日本人会代表者が集まり、排日土地法など時局多端にかんがみ、従来の単なる連絡団体にすぎなかった『南加連合日本人会』を独立団体に改組を決定、・・・」。
関東大震災時には33万ドルを集める
その後の活動記録をいくつか拾ってみると、実に多岐にわたっている。
▼一九一六年=水害被害地救護、地方団体の紛争仲裁、婦人の日曜労働中止指導
▼一九一七年=賭博撲滅運動推進、在留民衛生状態の改善
▼一九一八年=排日漁業法案防止運動、写婚禁止に抗議運動
▼一九一九年=日本練習艦隊の歓迎
▼一九二〇年=各地日会に青年会設置と各地に農業組合設置奨励
▼一九二四年=関東大震災に南加から三三万ドルを集め救援
▼一九三二年=八月に第十回オリンピック大会と全米市民協会大会開かれ、共に歓迎援助。
▼一九三五年=満州、日支事変で米国の対日空気悪化につき日米親善の運動を展開
このあと、日米間の摩擦が激化していき、南加中央日本人会は日本へ献金をすると同時に日米親善を働きかけるといった、日系人の複雑な心境を映すような活動をしている。
1940年には、南加中央日本人会という名称は、「米国最大の日本人密集地にふさわしく」米国中央日本人会と改称。そしてこれから開戦まで、同会は時局に対応してめまぐるしい活動をする。
同年2月21、22日に高野山ホールで開かれた定期代表者会議は「終始空前の大緊張を示した」。ここで時局対策決議がおこなわれる。
▼決議文 日系米国市民の父兄たる吾人米国中央日本人会代表者は、第二の故郷たる米国に於いて常に種々の恩恵に浴する機会を与えられていることを感謝す。非常時の場合は米国のために市民同様、総ての義務を遂行するに毫も躊躇するものに非ず。(以下略)
日本人として、アメリカ国民として
すでに二世への招集もはじまり、志願兵や徴兵の招集に応じて入営する前には、米国中央日本人会が奨励して壮行会が盛んに開かれた。同会の時局委員は彼らを激励した。
その内容は、「~米国の模範的兵士となって大和民族の真心と優秀さを示し、もって世界における日本民族の価値を高めよ。諸君は、人種としては日本人であるが、諸君の国籍はアメリカにあり、立派なアメリカ国民である。後顧の憂いなく、誠心誠意を以ってアメリカに忠誠を尽くし、以って日米親善に貢献されよ~」というものだった。
時局委員会は華府(ワシントンDC)にも出かけ、日米関係が最悪の事態になったとき在米日本人の十分な保護をアメリカ政府へ陳情、ルーズベルト大統領夫人や司法長官とも面会した。この結果、公正な保護を約束された。
また、ロサンゼルスにある英字紙の編集長などを川福亭や一富士亭といった料理屋へ招待したり、ロサンゼルス郡の米国在郷軍人の幹部団を招待して親善をはかった。このほか地元の有力者による時局講演会などを日本人のために開いた。
1941年夏には、ワシントンDCに赴任する野村吉三郎大使にもサンフランシスコでカリフォルニアの日本人の実情などを伝えた。
しかし、こうした努力も41年12月7日の日本軍によるパールハーバー奇襲で水泡に帰す。その日の午後4時、中央日本人会は緊急時局委員会を開き、善良なる米国市民として米国の法律規範を忠実に守るようにといった決議文を通過して散会した。その夕刻から、時局委員の大多数は有力敵性外国人として捕えられた。
こうして米国中央日本人会の活動は幕を閉じた。
(注:敬称略。引用はできる限り原文のまま行いましたが、一部修正しています。また、地名については「百年史」にある表し方を基本としました。)
@ 2014 Ryusuke Kawai