ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2014/7/23/irezumi-no-shinjitsu/

刺青の「真実」に生かされて ~ 島田淳子さんへの書簡 ~

この一文を、先日お店にうかがった時に話していただいたことを、私なりにもう一度咀嚼しながら、そして、私の印象も付け加えながら、したためていこうと思います。私はあなたの話にとても勇気づけられました。たまたま私自身が個人的なことで沈んでいたせいだったかもしれません。それでも、あなたの話に、私のように勇気づけられる人が必ずいるでしょう。そういう人がひとりでもいることを願いながら。

まず、なんと言っても、あなたに話を聞く前に、私の中に刺青に関するいろいろな疑問がくすぶっていたということを申し上げなければならないと思います。

淳子さんによる刺青 (写真:キップ・フルペック、 全米日系人博物館による『伝統の保存:現代社会の中での日本伝統の刺青展』より)

人はなぜ刺青を入れるのだろうか、何が刺青を入れることを決心させるのだろうか、女性の場合は男性と異なる動機があるのだろうか。そうした疑問を抱いたということ自体、私がどれだけ刺青のことについて無知であるかを証明するようなものかもしれませんが、それでも、全米日系人博物館が刺青展に合わせて作成したブックレット「パーシビアランス」にあなたが書いた文章を読むにつけ、この人には刺青のことについて、あるいは、刺青にまつわることについて、もっともっと言いたいことがたくさんあるのではないだろうか、そんな思いが私の中でどんどん膨らんでいったのは確かでした。

サンフランシスコに住むあなたを訪ねるしかないと思ったのも、ロサンゼルスから電話で話を聞いたのでは、どうしても限界があると判断したからです。心の深いところにある、まだ言葉になっていない思い。それを聞く。それを聞きたい。いや、それを聞かなければ、何かを書いたと言うことはできないだろう。サンフランシスコ行きは私の中で必然となっていきました。

「博奕打ち一匹龍」

あなたの店はサンフランシスコの街中にありました。約束していた時間に入っていくと、あなたが待ってくれていました。遠くから訪れた者を丁重に出迎える。そんな姿でした。

私は最初、あなたを気安く「淳子さん」と呼んでいいのかどうか、ためらいました。あなたは全身に刺青を入れている女性であり、人の体に刺青を入れている彫師です。私の中にある刺青に対する先入観から「どこか近づきにくい人なのでは」と、無意識のうちに構えていた部分があったというのが正直なところです。「先生」と呼んだほうがいいのでは、とも思いました。

丁寧にインタビューに応える島田淳子さん (写真:長島幸和)

しかし、話し始めるやいなや、その先入観が間違ったものであることを知らされました。こういう言い方は失礼かもしれませんが、あなたは、どこにでもいる近所のおばさん、という感じで話し始めたからです。それだけではありません。前もって送っていた質問事項をちゃんとプリントしていて、それぞれの質問への回答を、細かく書いているのを目にして、とても気さくな人という印象も持ちました。そうして気軽に、まるで旧知の友人にでも話しているかのように、あなたはあなたの人生を淡々と語り始めたのでした。

あなたは幼少のころ、温泉で刺青をした人の姿を見ていましたが、初めて刺青に惹かれたのは、実は映画の中でした。十歳のころのこと。映画は鶴田浩二主演の「博奕打ち一匹龍」でした。しかし、あなたが惹かれたのは、刺青そのものではありませんでしたね。鶴田浩二演ずる主人公の生き様でした。正義感が強く、義理人情を通す男。その時あなたの中で、やくざ、正義感、そして刺青が一体となったイメージとして形成されたのだと思います。その後ずっと抱くことになる刺青に対するイメージは、こうしてわずか十歳のころに作られたのでした。

お父さんの教え

あなたの幼少の頃の話の中で、私にとって特に印象に残ったことのひとつは、あなたとお父さんとの関係です。とにかく躾の厳しいお父さんだったようで、箸の上げ下げから、食事の時の会話まで、礼儀作法に反することをすると、箸で叩かれたということでしたね。それでも、男の子のように育てられたあなたは、お父さんとキャッチボールをしたり、一緒に釣りにいったり。父親っ子だったと言っていいでしょうか。

そんなあなたの人間性に大きく影響したと思える事件が、高校に入学して間もないころに起こりました。それは、あなたのお父さんがどのような人間であるかを本当の意味で知るきっかけともなった事件だったと言っていいようにも思います。

ある日のこと、学校で、あなたは先輩に呼び出されたのですが、「用があるのなら、そっちからくるべき」と反発。それでちょっともみ合いになった際、一人の女性の腕を捻りあげて、骨折させてしまったのでした。あなたは「お父さんに殺される。家を出て行くしかない」と思ったということですが、日頃のお父さんの厳格さから判断して、確かにそのような恐怖心を抱いても不思議ではないと思います。あなたが家に戻ったあと、学校から親元へ電話がかかってきましたが、電話に出たあなたは「両親は今家にいない」と嘘をつきました。それでも、お父さんにだけは何があったか本当のことを言っておきたかったということ。どうしようか考えた末、夜中過ぎに「出て行くにしろ、話してからにしよう」と腹を決め、お父さんの部屋に行き、一部始終を話したのでした。その時のお父さんの言葉は、私にとってもとても印象的なものでした。そもそも、お父さんは夕食の時から、あなたの様子が普段とは違うことに気づいていました。お父さんはあなたの話をじっくり聞いてくれました。そして、次のように言いました。

「怪我をさせたのは悪い。それでも、おまえが怒ったことは分かる。学校に行って先生に話しなさい。お前だけ処分するというのなら、学校はやめてもいい」

これだけきっぱりと言える父親が、いま時どれだけいるでしょうか。正しいことを通すことの大切さ。その勇気。私は、こうしたお父さんを持ったあなたを羨ましいと思ったものです。

それだけではありません。夜中過ぎに話してきたことに「半日、針の筵に座っていたような思いだったろう」と、あえて怒ろうともせず、すでに処罰は済んだというのです。あなたは「お父さんは理解してくれたんだ、と思いました」と話していましたが、お父さんから信頼されているということ、その深い信頼関係があったからこそ、その後もずっと、お父さんの死後もずっと、「あの時お父さんはこういうことを教えようとしていたんだな」と、遺した言葉、教え、教訓の意味を問い続けることになったのだと思います。

失われた小さな命

あなたは一度、自分で足に小さな十字架の刺青を入れたのでしたが、それは、反抗期の一つの象徴的な行為だったと言っていいでしょうか。当時の日本では、女性ということで日頃の行動にいろいろな制約があった上、とても関心があった刺青のことを聞いても誰も教えてくれない。刺青を自分で入れたとき「やった」という気持ちだったとのことでしたが、それは青春期の説明し難い心向きだったと思います。その後、何度か本格的な刺青を入れたいと思ったのですが、学校を卒業して就職し、そして結婚。その後で起こったある一つの「事故」が、本格的な刺青を入れるきっかけになりました。

その詳細を話し始めた時、あなたは思わず涙ぐんでしまい、しばらく言葉が途切れてしまいましたが、嗚咽に近いあなたの息遣いを耳にしながら、私は黙したまま、ただひたすらあなたの心の痛みを受け止めていました。その時、私は「この人の人生にとって、刺青は本当に重要な意味を持っている」と、深いところで了解したような気がします。

あなたの最初のご主人との結婚に、お父さんはショックだったということですが、その理由は敢えて問いません。何度か流産をした後、やっとのことで子どもに恵まれたあなたは「この子をやくざか彫師にするんだ」と、夢を膨らませました。もち論、「正義のやくざ」です。あどけない若い母親の、純な心が見えるようです。本当に嬉しかったのでしょうね。

しかし、生まれてから七日後、その子は新生児突然死症候群で急死してしまったのです。まさに、天国から地獄に突き落とされたような気持ちだったことと察します。しかも、ご主人が仕事で遠くに行っていた時の出来事でした。その時、あなたの子どもはまだ温かかったということ。「助けようと思えば、できたかもしれない」「どうして、なにもしてあげなかったのか」「助けて、助けてって、泣いていたのかもしれないのに」─。

悲しみとともに、どうしようもない怒りがこみ上げてきます。あなたはそれを、自分自身に向けたのでした。自分も死んでしまいたいという絶望感が襲います。生きているのがどうしようもなく苦しい。何もかもが、いやになってしまった─。その時のあなたの苦しみを、私はどれだけ理解できるのか分かりません。とにかく、想像を絶するほどのショックだったのだと思います。退院後は表に出ることもできなかったということですが、そこに、どれほど心の痛みが大きかったかを知らされるような思いです。そして、ご主人とはその後すぐに離婚されたのでした。

本格的な刺青を

そうして六カ月。あなたは失意の中で暮らしていたのですが、たまたま知り合った人が九州へ行くというので、あなたも一日も早く地元を離れたくて、一緒に九州に行くことにします。そして、その前に、本格的な刺青を入れてもらうことにしたのでした。子どもを失った絶望の中でもがきながら、あなたは刺青を入れることで何かをつかもうとしたのだと思います。それは一体何だったのでしょうか。

何を入れたかったのかは、容易に想像できるような気がします。十歳の時の「一匹龍」です。しかし、実際はそうではありませんでした。彫師からいろいろな図柄を示され、その中からあなたが選んだのは、息子が母親を殺している絵だったのです。それを聞いた時、私は、何と悲しい選択か、と思わずにいられませんでした。持って行き場のない怒り。償わなければならない罪の念の深さ。それでも、その刺青は仕上げるまでに何度も彫師のもとへ通う必要があります。「そうだ、これを最後まで入れてもらおう。死ぬのはそれからでもいい」

二年ほどして、あなたは九州から東京に戻ったのですが、最初に入れてくれた彫師とは連絡が取れなくなってしまいました。それで、途中から入れてくれる人を探しました。しかし、なかなかそういう仕事を引き受けてくれる人はいません。そんな時、彫俊先生と出会ったのでした。彫俊先生との出会いと、その後の彫俊先生や先生のお弟子さん、あるいは先生から刺青を入れてもらった人との話についてはやはり「パーシビリアンス」に詳しいので、そちらに譲りましょう。

心と体の痛みの中で

彫俊先生との出会いが、そして、彫俊先生から刺青を入れてもらっている時間が、あなたのその後の人生を決定しました。刺青を入れてもらっている時の心境を、あなたは何度も「なんて言ったらいいのか」と言いながら、懸命に説明しようとしたのですが、言葉を一つひとつ継ぎ足すように、たどたどしく語った話の中に、あなたにとっての刺青の「真実」を聞いたように思います。

「自分の心が傷付いていて、自分の中に死にたいという自分があって、それでも、そう簡単には死ねない。どこかに『負けちゃだめ』と自分を励ます声もあるんです。刺青を入れてもらっている時は確かに痛いんですけれど、心の痛みと体の痛みが励まし合って『がんばろう』って」

「刺青を入れてもらっている時って、瞑想に似ているかもしれません。肌をはじいている針の音。リズムがあって。特に背中に入れてもらっている時なんか、まさに励まし合いの声なんです。そしてお父さんが言っていた言葉、肉体と心と魂が一つになった時が本当の幸せなんだ、という教えがやっと分かったような気がしたんです」

お父さんは五十七歳で亡くなったのですが、そのお父さんが残したいろいろな言葉のおさらいをしているようだ、とも話していましたね。「くじけちゃだめだ」「何でも全力を尽くせ」「あきらめない」─。そんなお父さんの言葉も、失意の底からあなたを救う力となったことは間違いないでしょう。

夫のビル・サーモンさんと島田淳子さん (写真:長島幸和)

今のご主人であるビル・サーモンさんとの出会い、そして一九八八年のビルさんとの結婚、アメリカにおけるタトゥー・コンベンションへの参加、女性として彫師になったいきさつなど、アメリカに来てからの人生については、やはり「パーシビリアンス」にあなたが詳しく書かれているので、あえて繰り返しません。

もう一つ、あなたは「本門仏立宗」との出会いについてもお話しくださいました。そこには、自分自身への「赦し」という、とても大切なことがあるように思いますが、それはまた別の機会に譲りましょう。「刺青と宗教に出会えなかったら、今の自分はない」と言い切ったあなたの言葉の重みだけを記しておきます。

たどり着いた心の平安

最後に私は、彫師として、一人の日本人女性として、あなたはこれからどのようにこのアメリカで生きていこうとしているのかをお聞きしましたが、「全力を尽くして、一生懸命生きていたい」という飾り気のない言葉が、私としてはとても印象的でした。

それから、夢のことも話してくれましたね。「自分の心が水溜りの中で膝をかかえて泣いている夢をみたことがあるんです。そういう自分を長いこと見てみぬふりをしてきたんですね。ごめんね、と抱えてあげる。今はそういう自分と正面向き合っていかなきゃいけないと思っています」

大きな悲しみを、深い絶望を乗り越えてきてたどり着いた一つの心の平安のようなものをそこに見たように思います。それは「どの一日も除いてはここにたどり着けなかつた」と言えるほど、一日一日を大切に生きてきての結果です。

私にとって、わずかでしたがあなたと話すことができた時間は、これからもとても尊いものとして私の心に残ることでしょう。いつか、私が刺青を入れたくなった時には、ぜひあなたに入れていただきたいと思っています。

(左)島田淳子さんと夫のビル・サーモンさんは1999年にタトゥー・パーラー「ダイヤモンド・クラブ」をスタート。2004年に、現在の店をサンフランシスコの街中にオープンした。(右)島田さん夫妻の店で働くタトゥー・アーティスト、左から:Matthew Douglas Verseput (マシユウー・ダグラス・バーセプト) さんと Kevin Pulido( ケビン・プリドー) さん (写真:長島幸和)

* * *

The Dragon Tattoo Lecture with Junii
(珠尼による「一匹龍」レクチャー)

2014年8月2日(土)
全米日系人博物館
無料

現在行われている特別展「Perseverance: Japanese Tattoo Tradition in a Modern World (伝統の保存:現代社会の中での日本伝統の刺青)」の関連イベント。1967年のやくざ映画、大阪の刺青の世界を描く「博奕打ち一匹龍」にでてくる刺青について珠尼(島田淳子さんの屋号)が、レクチャーを行います。英語でのレクチャーになります(映画の一部のみ上映)

事前予約を受け付けています。Email:rsvp@janm.org または TEL: 213.625.0414 まで。
詳しくはこちら:http://www.janm.org/events/2014/08/#02

 

© 2014 Yukikazu Nagashima

タトゥー タトゥーアーティスト 入れ墨 全米日系人博物館 島田淳子 忍耐(展覧会)
執筆者について

千葉市生まれ。早稲田大学卒。1979年渡米。加州毎日新聞を経て84年に羅府新報社入社、日本語編集部に勤務し、91年から日本語部編集長。2007年8月、同社退職。同年9月、在ロサンゼルス日本国総領事表彰受賞。米国に住む日本人・日系人を紹介する「点描・日系人現代史」を「TVファン」に連載した。現在リトル東京を紹介する英語のタウン誌「J-Town Guide Little Tokyo」の編集担当。

(2014年6月 更新)

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