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「和食」ユネスコの無形文化遺産に登録

会席料理(写真:ウィキぺディアより)

国連の教育科学文化機関(ユネスコ)は2013年12月4日、アゼルバイジャンのバクー(BAKU, Azerbaijan)で開いた政府間委員会で、日本政府が推薦していた「和食 “washoku”(traditional Japanese cuisine)」を無形文化遺産(Intangible Cultural Heritage)に登録することを決めた。食関連の無形文化遺産では、既に「フランスの美食術」「地中海料理」「メキシコの伝統料理」「トルコのケシケキ(麦がゆ)の伝統」が登録されており、和食は5件目。

会席料理(写真:ウィキぺディアより)

日本政府は昨年3月に和食の登録をユネスコに提案。「四季や地理的多様性による新鮮な山海の幸」「自然の美しさを表した盛り付け」「正月や田植えなどとの密接な関係」など文化性の高さをアピールしてきた。これを受け、事前審査するユネスコの補助機関は10月、「社会の連帯に大きな役割を果たしている」として、和食の新規登録を求める「記載」の勧告をしていた。

無形文化遺産は「世界遺産」や「記憶遺産」と並ぶユネスコの遺産事業の一つ。日本からの登録は歌舞伎や能楽などに続き22件目だが、和食については、米国での普及、それに続くヨーロッパでの普及で、すでに世界的な広がりをみせており、そうした背景が無形文化遺産の登録決定に大きく影響したことは十分考えられる。もし和食が日本国内だけに止まっていたなら、今回の決定はなかったという見方だ。そうした観点からすると、米国に日本食を広めた貿易会社の貢献は大きい。

大手貿易会社の一つ、共同貿易の金井紀年会長に話を聞いた。

共同貿易株式会社(MTC)は、日本食、アルコール飲料、レストランサプライ専門の業界最大手企業。1926年に小規模の協同組合として設立し、当初は南カリフォルニアの初期日系移民のニーズに応えるため、主に基本食材の輸入調達を行ってた。現在80年以上の実績を誇るMTCは、日本食サービス全般に関わる供給業者として業界を牽引するばかりでなく、「食の大使」として日本食を世界中に広める役割を担っている。現在MTCは、5,000種類以上の日本食、飲料、レストラン機器や備品を輸入、生産、販売している。

寿司の普及に賭ける

共同貿易はリトル東京の南にある。創業は1926年だが、本格的に日本食の対米輸出業務を開始したのは、現会長の金井さんが当時の石井忠平社長に乞われて経営に参加した1951年のことだった。

和食のユネスコ登録について語る共同貿易会長、金井紀年さん。共同貿易の会議室にて。

金井さんは第二次世界大戦中、ビルマの前線に送られた。ビルマでは日本軍の戦略が失敗し、30万人の日本兵が死亡したが、その95%は、後方の食料が前線に届かなかったためだった。金井さんは戦後、米国に住む日本人向けに日本の食品を届けるビジネスに携わるようになったが、そこには、そうした戦争中の教訓があった。

当初、日本のクッキーを日本から輸入して販売し大成功を収めたが、米国大手との競争には勝てなかった。そして、ユダヤ系の元食品ブローカー、ハリー・ウルフ・ジュニア(Harry Wolff Jr.)さんの勧めで、日本にしかないものを取り扱おうということになったのだが、その時に決まったのが寿司だった。まだ米国ではほとんどの人が知らなかった寿司だ。1960年代半ばのことだった。

金井さんはスーパーマーケットで普及を図るか、レストランで普及を図るかを考えた末、レストランでの普及に焦点を当てることにした。それを踏まえ、米国の人たちが馴染みやすいように、寿司バーを考案。当時リトル東京にあった大手の日本食レストラン「川福」に足繁く通い、寿司バーの設置を勧めた。そして、やっと半年後、川福が承諾。米国初の寿司バーが登場した。「寿司バー」という名前も金井さんのアイデアだった。

これに続いて、やはりリトル東京にあった「栄菊」が翌年、そして、翌々年には「東京会館」も寿司バーを設けた。こうして、次第にアメリカ人も寿司を食べるようになった。こうして米国人の間に寿司が普及し出すと、リトル東京から、他の地域の日本食レストランに「飛び火」。白人の寿司シェフも出るようになり、寿司はウエスト・ロサンゼルス方面にも広まっていった。

付随食品の普及が続く

共同貿易の倉庫内。ここから、様々な日本の食品や素材・調味料などが全米各地の日本料理店へ輸送される。

寿司には当然、コメが要る。それも、寿司にふさわしいコメだ。こうして、カリフォルニア州で寿司に適したコメを作っている「国府田(Koda)農場」との取り引きが始まった。そして、醤油、酢、海苔など、寿司に必要な食品の輸入を拡大。保存も、1960年代中盤から徐々に普及し出した冷凍という手法を採用した。当初、氷を袋に入れ、それに入れて空輸していた魚の輸入が、それまでより大幅に改善された。

それだけではない。寿司に付き物の酒の輸入を広げていった。調理器具も必要である。刺身包丁、プロ用俎板などから、醤油注し、盛皿などまで、共同貿易が取り扱う商品は拡大の一途をたどった。

一方で、寿司シェフの供給という問題もある。1960年代後半から70年代には、米国で寿司シェフの需要が大幅に拡大、日本から大勢の職人が来た。当時は合法ビザも取得しやすかった。ところが、日本人以外でも寿司シェフができるようになると、次第にビザの取得が難しくなっていった。一方で、第二次石油ショック以後の円高で、米国のドルへの魅力が減ったこともあり、米国に来る寿司職人は減少。この傾向が続いていたため、金井さんは、既に定評のある寿司レストランと共同で、寿司学校をはじめた。2008年のことで、これまでに100人ほどの寿司シェフを出している。

こうした一連の流れについて、金井さんは「日本食が世界に出ていった時、いろいろな批判を浴びた。それでも、これだけ広まったのは、日本食そのものの力だ。私たちはそのお手伝いをさせてもらったということだと思う」と話す。

「世界で、その国の全体的な食文化がユネスコの無形文化遺産に認められたのは、フランスと日本だけ。これは大きなことだ。無形文化遺産に認められたことで、日本の食文化にかかわる仕事は、これからもっと大きなものとなっていくでしょう」

戦争の体験から学んだディストリビュートの大切さを噛み締めるように、金井さんは語った。

共同貿易のショールーム。様々な日本食にちなんだアイテムが並んでいる。

 

* 本稿は「J-Town Guide Little Tokyo」(2014年1月号)に英語で掲載されたものの日本語版です。

 

© 2014 All Japan News Inc. / Yukikazu Nagashima

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