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強制収容所で生まれた三世が作った、強制収容所での父母の苦悩を描いた映画「絹の繭から」(2006年制作)  

長野県のある新聞社から通訳を頼まれて、9月にサンフランシスコ郊外のバークレーに行ってきた。インタビューの相手は、カリフォルニア州立大学サクラメント校名誉教授のサツキ・イナ(伊那さつき、70歳)先生だった。

伊那さんの母親はアメリカ生まれで、長野県で育ち、戦前に帰米している。通訳の仕事が終わったあと、伊那さんのことをディスカバー・ニッケイで紹介したいと言ってみたところ、数日後、伊那さんから2枚のDVDが送られてきた。いずれも日本語字幕が付いていて、伊那さつきさんが制作者(プロデューサー)としてかかわった映画だった。

1枚目は「キャンプの子供たち」(Children of the Camps)というタイトルで子供のときに強制収容所で過ごした日系人たちの話だった。伊那さんは、子供のときに収容所体験を持つ日系人を集めて1990年代にグループ・カウンセリングを行った。これは、そのグループ・カウンセリングの記録映画で、日系人が戦後、社会的に成功していても、収容所の体験がいかに深い心の傷として残っているのかが、描かれている。1999年に制作されたこの映画は、同年、全米公共放送(PBS)で放送されている。

そして2枚のDVDは「絹の繭から」(From a Silk Cocoon)というタイトル(2006年制作)だった。伊那さんの両親の強制収容体験をドキュメンタリー映像と、ドラマ映像を組み合わせて描いたものである。

この2つの映像は発表されてからすでに年数は経っているのだが、日本語であまり紹介されていない映像なので、今回、取り上げてみることにする。

まず「絹の繭から」について、取り上げてみたい。伊那さつきさんの父・伊那いたるさんは1913年、サンフランシスコ生まれ。生まれてすぐに母親といっしょに日本に帰り、日本で教育を受けたのちにアメリカに戻った。母・伊那静子さん(旧姓・三井)は1917年、シアトル生まれ。3歳で母が亡くなったので、3歳から13歳までを長野県で過ごし、その後、再渡米し高校を卒業して、また日本に戻った。

父・いたるさんと、母・静子さんが出会うのは1939年のサンフランシスコ・トレジャー島で開かれたゴールデン・ゲート国際博覧会だった。静子さんは、この博覧会で日本の生糸展示を説明する「シルク・ガール」として日本から派遣されていた。映画のタイトル「絹の繭から」は、シルク・ガールの仕事が母・静子さんのアメリカでの人生の出発点、という意味で使われている。

さつきさんの両親は、1941年4月にサンフランシスコで結婚する。静子さんはシルク・ガールの仕事を終えて、いったん日本に戻り、結婚のため、再渡米した。そして1941年12月7日(日本時間12月8日)日本軍によるハワイ・パールハーバー攻撃で、日米戦争が始まる。

静子さんにとって、1942年4月から始まった強制収容所での生活は、2人の子供の妊娠と子育ての時期となった。長男のキヨシ(潔)さんは、1942年12月にユタ州中部に設けられたトパーズ収容所で生まれた。長女のさつきさんは、1944年5月にカリフォルニア州北部のツールーレーク収容所で生まれた。

1942年2月に、アメリカ西海岸に住む日系人にたいしてルーズベルト大統領による強制立退が発令されて、1942年4月から強制収容が始まり、約12万人が10カ所の強制収容所に送られた。

1943年になると、アメリカ政府は、強制収容所にいる日系成人に対して、アメリカ合衆国に忠誠を誓うことができるか、アメリカ合衆国を守るために軍隊に入る意志があるかどうかを問う、いわゆる「忠誠登録」を始める。

忠誠を誓うと答えた日系青年たちは、徴兵の対象となり、強制収容所から戦場に向かった。しかし、このとき、忠誠登録に対しノーと答え、アメリカ市民権を放棄して日本への送還を選択した日系人が約5000人いたのだった。

さつきさんの両親は、実は、このアメリカ市民権放棄者だったのだ。映画「絹の繭から」では、いたるさんと、静子さんの残した日本語の日記と手紙を使って、当時の伊那ファミリーの収容所での困窮した生活と苦悩を描いている。

いたるさんは「自由が保障されない限り、アメリカ合衆国への忠誠質問に答えることはできない」と質問そのものへの回答を拒否していた。また、強制収容所から日本に送還されるよう、自らのアメリカ市民権を放棄したのだった。静子さんも、夫と同様に市民権を放棄した。

実は、アメリカ政府も二世によるアメリカ市民権の放棄を容認していた。強制収容所内に不平分子を収容しておくよりは、アメリカ市民権を放棄して外国人になった者を、国外に追放するほうが得策と考えたからだ。

アメリカ市民権の放棄者は、日本が戦争に勝つことを信じ、日本への帰国を望んでいたが、日本の敗戦が確定し、日本では食糧難、住宅難が起こっていることが伝わってくると、日本への送還希望を撤回するようになっていく。

映画「絹の繭から」のみどころは、アメリカ人が作った映画でありながら、父・いたるさんの心情を、いたるさんの残した日本語の俳句を映像とナレーションで紹介し、その後に、英語で内容を紹介しているところだ。日本へ送還されるかどうかが決定される査問を前に、いたるさんは、次のような歌を書いていた。

日脚伸ぶ、窓あり審判待つおそれ

送還か釈放か、ゆきにあさ焼す

伊那いたるさんと静子さん夫婦、そして収容所で生まれた2人の子供たちの日本送還は、いたるさんの友人がアメリカ政府に出した嘆願書が認められて、撤回される。そして伊那ファミリーは一般の市民生活に戻るため、強制収容所から釈放されてオハイオ州シンシナティへ行くのだった。

しかし、伊那ファミリーが最後に釈放されたのはテキサス州クリスタル・シティーで1946年6月のことで、日米戦争の終結から1年近くも経っていた。

9月にバークレーで初めて、さつきさんに会ったとき、さつきさんは映画「絹の繭から」をNHKで放送してもらいたい、と私に伝えた。そのときは、どう返事をしてよいものか、困ったが、「絹の繭から」を見て私は、この映画は日本で見てもらいたいと思った。強制収容所での日系人の苦悩をこれほど克明に描いた映画はないと思ったからだ。

続く >>

 

© 2014 Shigeharu Higashi

From a Silk Cocoon Kibei Satsuki Ina World War II