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どちらでもない:私の愛すべき多民族ボーダーランド

私は、もう何週間もこのエッセイを書く気になりませんでしたが、ディスカバー・ニッケイで同時期に出会った2つの文章がきっかけとなり、書き始めることができました。最初に読んだのは、ニッケイ・ハパ心理学者、スティーブン・マーフィー重松による最新著書「When Half is Whole: Multiethnic Asian American Identities」に対する、ナンシー・マツモト氏の素晴らしい書評(2012年12月26日、英語のみ)でした。次に読んだのは、ロサンゼルス在住のフード・ライターであり、蕎麦職人・仕出し屋、そして「Common Grains」発起人の酒井園子氏によるエッセイ(英語のみ)でした。

マツモト氏は書評で、マーフィー重松のライフワークは、「混血アジア人のアイデンティティに関する複雑な問題を探求しており、繊細さと思慮深い共感をこめて、多国籍および多民族アイデンティティが形成される地点を(国と人種の境界線のない)『ボーダーランド:境界地』と呼び、読者を導いている。」と解説しています。これを読んで私は、なるほど!と思いました。「境界」が象徴するものとその背景にある心理は、私自身が、詩人として、作家として、ミックスの日系人女性として、内的にも外的にも何年にも渡り探求していたことでした。

同様に、私は酒井氏の経験からも刺激を受け、また、彼女が日本人の両親のもとニューヨークに生まれ、西洋と日本の様々な町、-中には私の母の故郷である鎌倉もありました-で育ったという生い立ちに親近感を覚えました。酒井氏は、最終的にロサンゼルスに居を構え、安定や連帯、身体及び精神維持の源としての食に関するワークショップや執筆活動を行っています。これら2つを読み、私は、自分自身の歴史と自己のアイデンティティをどう定義付けるか、という何年にも渡る苦悩を結び付けることができました。

私は、サンフランシスコのベイエリアに長年住んだ後、最近夫と共にロサンゼルスエリアに引っ越して来ました。そして、「ニッケイ」という呼び方を発見し、日系コミュニティの活力と多様性に興奮しました。かつて私が自分自身を呼ぶために使っていた、日本人のハーフ、ユーラシアン、ハパ、混血(ミックス)といった言葉の中で、「ニッケイ」が最もよく私のことを要約してくれていると思いました。

結婚式の日の両親、マーセルとシズエ(1960年2月27日鎌倉にて)

私は、日本人の母とニューイングランド出身のフランス系カナダ人であり、アベナキ・ミシスコイ・インディアンを先祖に持つ父の娘として生まれました。1960年、神戸で生まれた数ヶ月後、私たちは父に連れられて南カリフォルニアへ移り、その後、サンタバーバラ、グアム、東京に住みました。定期的な転居に加え、2つの文化環境で育つ中、私は「他者性」を感じるようになっていきました。

1960年代当時、私が9歳まで過ごした南カリフォルニアでも、私のような子供はほとんどいませんでした。私は、自分が周囲のほとんどの人たちと違うことを子供ながらにわかっていましたが、周囲に溶け込むということはつかみどころがなく、どのように入っていけばいいかわかりませんでした。「マリ」という名前は日本人の女の子には珍しくない名前ですが、この国の人々は、他の似たようなスペルのマリー、メアリー、マーシー、マーティといった名前と区別がつかないようでした。また、私の名字「レスペランス」は、今では大好きな名前ですが、この姓をもってしても、日本人の子孫として自分を定義付ける助けにはなりませんでした。父が教員となったグアムに住み、東京の高校に1年間通い、自分以外のミックスの子供たちと日常的に交流するようになるまで、私の中に日系人という意識が芽生えることはありませんでした。

後に学んだことですが、私が感じてきた他者性は、実は家族に継承されてきた意識でした。私の母は、仕事と英語の勉強のため、20代前半で単身アメリカへ渡りました。彼女の両親の希望に反し、母は、いわゆる伝統的な日本人ではなく、意欲的で率直に物を言い、創造性に富み、知的好奇心が旺盛な女性でした。母は、第二次大戦後の日本で、女性の選択肢が限られていることを窮屈に感じていました。音楽家兼教師である父は、学生の頃に同じく学生だった母とボストンで出会いました。そんな父もまた、家族の中の「他者」でした。移民の両親から生まれた7人の子供たちの中で、父だけが大学で学び、外国を旅しました。

戦後の日本社会を生きる、意志の強い女性だった母にも、従順で献身的な一面がありました。母は、その世代の多くの人同様、私が3歳になるまでに読み方とピアノを教え、義務教育が始まる前に、私と弟に日本語の読み書きを我慢強く教え、日本語と英語で読み聞かせをしていました。

母は、孤立する移民女性であり、嫁いだ国では下層クラスとして、またはエキゾチックな対象として扱われ、苦労してきました。今となって私は、母がそんな状況であっても、深い愛情と義務感をもって、私たちにそのような教育を施してくれたことに驚きを隠せません。母の生来の強さや文化的価値観、そして他者性により、母は、後に企業家としてキャリアを積み、多様なビジネス領域や社会集団の中を器用に行き来し、いくつもの交渉に成功してきました。そして時には、顧客の興味や期待の間で衝突することもありました。

稀に家族で日本を訪れる時、母は決まって私に日本の伝統芸術や文化を見せてくれました。私が好きだったのは、母が愛してやまない銀座の三越や高島屋の広大で色鮮やかで賑やかな食品売り場でした。私は、母が後にした日本と日本文化に対する母の言葉にならない愛情を、日本へ行く度に感じていました。私は、母が与えてくれたものに感謝できるようになるまで何年もかかりましたが、それらが私の一部となるまで、与えられるものを吸収し続けました。

父は、将来への期待が持てなかった不遇の時代、保守的なローマカトリックとして育てられた田舎者の自分にとって、朝鮮戦争への出征は救いだったと語りました。若い兵士として、初めてニューイングランドから遠く離れた土地に住み、大学での勉強という特権に恵まれた宿舎仲間から素晴らしい文学の手ほどきを受け、休暇で訪れた日本では日本文化の虜となりました。そしてそのずっと後、父は永久的に日本に住むことになり、今では在住35年です。父は、長期的な外国生活というユニークな形で、「境界地」を生きています。

父は、家族からの援助を受けることなく、復員軍人援護法を利用してボストンの大学で学び、音楽教育の修士号を取得しました。そして、一生をかけた情熱である合唱隊の専属指揮者となるべく、リスクを負いながら夢を育みました。父は、過去30年に渡り東京を拠点とし、国際歌手のコミュニティや音楽愛好家と音楽への情熱を分かち合ってきました。私は、元来控えめな父が、数々の逆境にもめげず、このように開放的でクリエーティブな人生を手に入れたことに驚いています。父にとって、他者性は機動力でした。

私は、大学を卒業した20代前半頃、ロサンゼルスで暮らしていましたが、日本と私の中の日本人の部分を探求すべく、1985年、東京に移り住みました。つまらない仕事でしたが、私が得たビザと収入で、東京を探検し日本中を旅し、日本人の友人たちと交流することができました。友人たちは皆とても優しくはありましたが、ほとんどの人が私を「外人」と見なし、私がいつ国に帰るのかよく聞いてきました。

私は、日本について多くを学び、それは価値ある学びでしたが、私が日本人として受け入れられることは、たとえ私が日本語の読み書きをマスターし、言葉を流暢に話し、日本人の男性と結婚し、日本名を名乗り、残りの生涯を日本で過ごしたとしても、絶対にあり得ないだろうと悟りました。2年以上境界線上で生活し、寂しさを感じていた私は、何もすることがなくなり、アメリカに帰りました。今では定期的に日本を訪れ、可能な限り東京と鎌倉の親戚に会いに行くものの、決して頻繁ではありません。

サンフランシスコとニューヨークで11年を過ごし、1999年、私はベイエリアに再び移り住み、昨年11月まで過ごしました。この間、私の日本文化との主な接点は、日本に住む母方の親戚への稀な訪問を除けば、サンフランシスコの日本街への1人きりの小旅行でした。母の死後、(1995年の母の死は未解決で謎に包まれており、私のトラウマとなっています。)日本街で過ごす時間は、言葉では言い表せないほど精神的な癒しとなりました。アメリカでも日本でもない都会の中の境界の町で、私は、見慣れた物や食べ物に慰められ、所属意識に似た感覚を得ました。

この町で私は母と繋がり、母と母の文化が何を意味しているのか、体感することができました。みすぼらしい商店街や日本街の散らかった店をうろうろすることは、何にも増しての楽しみでした。親子どんぶりか天ぷらそばを昼食に食べ、ウィンドウショッピングを楽しみ、紀伊国屋書店に足しげく通いました。日本語を読みこなすことはできませんでしたが、本の背の漢字や派手なポップカルチャー誌、日本庭園や農家の伝統家屋、芸術、料理、華道、その他様々な本の豪華な写真をゆっくり味わいました。私は、母の死を自分の中で整理しようとしていたのだと思います。なぜかはわかりませんが、そんな風に午後を独りで過ごした後は、気分が良くなり、自分の中の調和が取れ、地に足がついたような気持ちになりました。

私が感じていた他者性は、私がアジア人に見られることがほとんどない、ということからさらに複雑化しました。私は、そのまま「スルー」されるか、よく別の人種(イタリア系、ネイティブアメリカン、スペイン系など)に誤解されました。特に不快だったわけではありませんが、他人から見た私も私の見た目もマーフィー・シゲマツ氏の言う「ボーダーランド:境界地」、つまりミックスの人間のどこにも属さない、という領域にあることを知りました。周囲の人たちは私が白人であると決めてかかり、私がミックスであることを伝えると驚きを示しました。また、私のフランス語の姓とアジア人に見えない見た目により、単一文化志向が強く、よそ者を嫌う傾向が一部根強いアジア系アメリカ人文学の世界でも、私は「他者」でした。

あるイベントに出席した時には、(皮肉なことに白人の特権に関する映画について議論するために開催されました。)「白人で埋め尽くされた会場で」議論することに意義を感じる、という感想を述べた人がいました。これは、私の他者性を別の角度から見せられた、驚くべき経験でした。つまり、この時私が心の中でどんなに日本人としての自分を感じていたとしても、それは問題にはなりませんでした。なぜならこの人の目には、私はほんの少しも日本人ではなかったからです。もちろんそれは悪気のない単なる不注意でしたが、私はこの間違いに影響され、自分のアイデンティティ意識を再評価せざるを得なくなりました。そして私は、自分自身に対する自己の定義付けができていれば、他人のうぶな決めつけにこんなに影響されることはなかっただろうに、と思いました。

私の課題はこうです:私はいったい誰?何者?そして何よりも増して重要なことは、私自身が自分をどう捉えたいか、ということです。何年も自問を繰り返してきましたが、そろそろ明るみになりつつあり、私はようやく自分を受け入れられそうな気がしています。課題への取り組みは、現在進行中です。

私は、複数の民族性を持つ多くの人々同様、生涯をかけて「故郷」を探し求めてきました。南カリフォルニアへの長い空白の年月を経た帰郷は、一生をかけた内的かつ外的な居場所を求める旅の最新章です。日系コミュニティとの出会いは、この旅の一部であり、コミュニティを探求する中で、私はどのように「他者」であり続け、同時に所属することができるのか学んでいます。

© 2013 Mari L’Esperance

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