ジャーナルセクションを最大限にご活用いただくため、メインの言語をお選びください:
English 日本語 Español Português

ジャーナルセクションに新しい機能を追加しました。コメントなどeditor@DiscoverNikkei.orgまでお送りください。

限りなく遠かった出会い

古いフィルム(2) ドウラードス植民地事業

この古いフィルムには、前回記載したシーン以外に、私の一家と深い関わりのある映像が含まれている。それは父が一生を賭けたドウラードス植民地事業に関してである。今でも私の手元にこの古い映像が残っていることに、私は不思議な因縁を感じずにはおれない。

父季光と母敏子、抱かれいるのは弟の宗光、前列は私と姉の雪子(1951年)

私の父母一家は、1945年にパラナ州のアプカラナ市に入った。歯の技工士の職業と、耕地周りの仮の歯医者の仕事もしていた父は、その傍ら、終戦後、勝ち組が刊行していた雑誌「光輝」(ひかり)のパラナ州支部長でもあった。

そのため、当時家の前には雑誌「光輝」の看板がたっていた。ある時、認識派のメンバー達が、それを写真に撮り、政治警察に渡したのだ。その結果、父は逮捕され、ロンドリーナ市の刑務所に収監された。そこからは、友人たちのはからいで数日後には釈放された。

そんな生き方に嫌気をさしていた父は、何か自分にあった事業を常に探していた。その兆しを見たのが、パラナ州政府が所有する未開拓地があると聞き入れた時であった。そして1948年、父はドウラードス植民地事業に乗り出した。

父の残した古いフィルムには、父がその事業に対する使命宣言を、「ブラジル移民の父」と言われる上塚周平(1876~1935) の墓の前で読み上げている場面があった。また、1951年に録画された映像には、60,000アルケール(*)のドウラードス植民地事業の現場も映しだされていた。

この植民地事業は、太平洋戦争終結から3年目の1948年に、パラナ州政府の承認の元、開始された開拓事業であった。父はこの時、34歳であった。当時のドウラードス開拓地は密林地帯で、そこにはシェタス族のインディオが住んでおり、開拓地の日本人達が育てたとうもろこしなどを貰いに来ていたそうだ。

ドウラードス植民地に居たインディオ。シェター族

父が開拓を始めた4年後、パラナ州の知事選挙が行われた。しかし、これが父の行く末を大きく変える結果となってしまった。

現職のルピオン州知事は、ヅトラ大統領が支持し、開拓事業を推進していた同じ与党のゴーメス海軍大臣を後任にと押していた。当然、父もそうであった。一方、野党のベント知事候補者は、バルガス元独裁者を支持していたサンパウロ州知事のアデマール派で、開拓事業にはあまり興味を持っていなかった。激戦の末、与党候補は予想を裏切って敗れてしまった。結果、ドウラードス植民地ではすでに土木工事が進み、入耕者もいたが、父とパラナ州前政権による植民事業は中止された。結局、父のドウラードス植民事業の規模は三分の一以下に縮小され、残りは、サンパウロ州政府が支持するグループの手に渡された。

この植民事業中止は、政治的大問題となった。新聞では、与野党間の叩き合いが行われるようになり、父は邦字新聞にもたたかれた。そのうえ「勝ち組・負け組み」問題にも発展し、事は泥沼化していった。

勝訴の判決を語る父 (1985年)

父が手がけていた大きな夢は一変した。気性の激しかった父はやむをえず、1954年、州政府を相手に裁判に持ち込んだ。つらい、厳しい、宮村家一家の戦いが始まった。

気の遠くなるような歳月を経て、ようやく判決にいたった。裁判を初めてから31年後、1985年のことだった。すでに71歳になっていた父は、ようやく勝利を手に入れることが出来た。しかし、父の葛藤は、81歳で亡くなるまで、その後10年も続いた。日本帝国男児としての根性と絶対あきらめないという信念を貫いた人生であった。

父の植民事業が、いかに政治的問題に深くかかわっていたのか当時の人はほとんど知る余地も無かっただろう。

父が、この問題を裁判まで持ち込んだかというと、さらに複雑な政治的問題が絡んでいたからだった。父が事業を初めてから数年後、新たな政治的問題がうきあがっていた。

私の母方の祖父母たちをはじめ、多くの日本人移民がブラジルの耕地へ移住した1930年頃、世界的不況にともなったコーヒーの国際価格の暴落および国内での過剰生産、さらにはコーヒー栽培の行われていた土壌の疲弊といった様々な問題があり、ブラジルのコーヒー市場は最悪な状態であった。そのため、1930年後半から1940年代になると、しだいにコーヒーや綿花の生産に最適で良質な「赤い土」が豊富なパラナ州へと生産地は移動していった。それにあわせ、パラナ州への移住者も増えていった。

そんな頃、父は、開拓事業をするにあたり、サンパウロ州で成功していた日系人移民主体の植民地事業をパラナ州で再現する事はできないか検討していた。耕地周りをしている矢先に、パラナ州政府の未開拓地の土地管理人と偶然に知り合いになった。州政府の農務長官の名前を聞き出した父は、書き上げた企画書を持って、サントス在住時代の知人の紹介で、金山というパラナ州の国立法科大学生の日系二世の通訳を介し、その長官に面接を申し入れた。こうして、父の開拓事業が始まったのだ。

その後、父はルピオン知事と会い、他の長官と意気投合して事業は着々と実行に移された。父の努力が実ったのが1948年のことだった。戦後のサンパウロ州の日系人社会が大混乱している時で、自らの夢をあの時期に実現させたことは、信じがたいことであると今は思う。

ドウラードス植民地視察の父、入耕者たちと

しかし、絶頂期に達しつつあった時、予想もしなかったことが起きた。

サンパウロ州で収穫されたコーヒーは、生産地から鉄道でサントス港に運ばれ、そこからから海外へ輸出された。その鉄道は、英国の資本家達がつくったシンジケートによる投資によって建設されており、その鉄道沿いの土地は、不動産会社より売りに出されており、鉄道の両側30キロほどは、鉄道運営会社の所有地となっていた。このような形で、パラナ州にも鉄道が延ばされていった。当時、この鉄道は、私たちが住んでいたアプカラナ市まで延びていたが、ドウラードスはそこから400キロ先にあった。

父の事業が実を結びだした矢先、パラナ州の政治家たちの中には、自分の州で栽培される高品質のコーヒーの輸出には、州中央地域を横断しパラナグワ港へつながるルートを優先的に使い、その路線をパラナ州が建設するという計画があった。この企画は、当然サンパウロ州のアデマール・デ・バーロスの意思とは真っ向から衝突した。そして、父のドウラードス植民地事業には、サンパウロ州の資本家たちの支持する政治家たちの鋭い刃が伸びだしていた。結局、サンパウロ州は圧倒的な力を持っていたし、政治的に勝てる見込みは少なかったのだ。

州知事選挙で野党に座を奪われたのは致命的なことで、立ち上がったばかりの事業は、最悪の状態に陥った。ドウラードス植民地は払い込まれただけの範囲に縮小され、残りは、サンパウロ州の政治家と実業家の手に移された。

31年間の裁判の判決後、勝利を得た父母と姉(故人)(1986年)

父が一生を掛けた事業の夢が、30年間の裁判問題となった背景である。この古いフィルムはこのような事実を裏付けているかのように見える。

最近知り合った方たちの中には、太平洋戦争勃発後禁止されていた日本人移住が解禁となり、60年前1953年からコチア青年移住者としてブラジルへ渡られた方たちがいる。この方たちの中には、1963年にパラナ州に入耕したという方もいた。父が若き頃、壮大な夢を描き、一生を掛けた開拓事業を断念し、涙を呑んで手放した土地ドウラードス植民地。彼らは、入耕されたときの様子をわたしに語ってくれた。

この方達と一緒に、この古いフィルムを観れるということは、またなんと不思議な引き合わせというか、因縁の力と言うか、父の夢からすでに65年が過ぎた今、この宇宙の不思議な真理を考えさせられる。

戦後移民再開60年記念式委員会。ドウラードス植民地に入耕された方が居る(右端から三人目)、左端は著者(2013年)


(*)1アルケール=24,200平方メートル

©2013 Hidemitsu Miyamura

Brazil colonia Dourados Parana

このシリーズについて

1934年19歳で単身ブラジルに移住し、81歳にブラジルで他界した父が書き残した日記や、祖父一家の体験話などをもとに、彼らのたどった旅路を、サンパウロ新聞のコラム「読者ルーム」に連載した(2003年4月~2005年8月)。そしてそのコラムをまとめ、「限りなく遠かった出会い」として、2005年に出版した。このシリーズでは、そのいくつかのエピソードを紹介する。