ジャーナルセクションを最大限にご活用いただくため、メインの言語をお選びください:
English 日本語 Español Português

ジャーナルセクションに新しい機能を追加しました。コメントなどeditor@DiscoverNikkei.orgまでお送りください。

世界のウチナーンチュ:精神の有り方 - 世界と郷里の沖縄人へのまなざし その1/3

2011年12月、沖縄テレビ放送の元ブロードキャスター、前原信一氏にハワイ大学マノア校名誉人文学博士号が授与されました。沖縄県民への授与は、今回が初めてとなりました。

前原氏は、これまで何度もハワイを訪れ、1987年から2004年にかけてドキュメンタリーシリーズ「世界のウチナーンチュ」の制作のため、ハワイ在住のウチナーンチュにインタビューを続けてきました。世界中の沖縄人への理解促進に貢献した前原氏の活動を称え、博士号が授与されました。

今回の滞在期間中、前原氏はホノルルマラソンに参加し、ハワイ大学では世界の沖縄人について講演をしました。そのスピーチの原文は、お読みいただくことができます。講演は日本語で行われましたが、マイケル・リンタロウ・マクダーモット氏が前原氏によるコメントを英訳しました。

* * *

2011年12月ハワイ大学マノア校より、名誉人文学博士号を授与された前原信一氏。

このたび、ハワイ大学マノア校より名誉人文学博士号を授与されました。私自身、大変な名誉なことだと思うと同時に、これまでの人生で最高の喜びを感じております。その一方で、学究の身でもなく、アカデミックな経歴もない私が果たして名誉博士という称号に値するのかという戸惑いも正直ございますが、ハワイで推薦していただいた方々や、大学当局並びに理事会の方々のご厚意に応えるためにも、身に余る光栄だとしてお受けした次第であります。

私は沖縄テレビという日本のローカルテレビ局に、2011年の6月まで38年間、勤めておりました。38年間のほとんどを報道・制作の現場で仕事をしてまいりました。特に1987年から2004年までの17年間は、海外の沖縄コミュニィティーや移民の人たちにインタビューしたドキュメンタリー番組の制作にディレクターとして関わってまいりました。

その間、取材で訪れた国は35カ国、インタビューした沖縄移民は500人を数えました。取材距離も48万キロ、ざっと地球を12周したことになります。この取材をもとに30分のドキュメンタリー番組210本を制作しました。沖縄での放送に続きまして2003年からはハワイでもニホン・ゴールデン・ネットワーク(NGN)を通じて放送されております。

今日はこうした取材の経験をもとに、なぜ日本の最南端の小さな県である沖縄から多くの海外移民が出て行ったのか、そしてこのハワイでも見られるようにウチナーンチュと呼ばれる沖縄系の人たちが、それぞれの移民先で沖縄のスピリットやメンタリティーを大切に守り、アイデンティティーまで高めていったのはどういう背景があったのかということについて話してみたいと思います。

その前にウチナーンチュという表現ですが、沖縄の言葉で沖縄人を意味します。

かっては沖縄人や沖縄県人という表現が主流でしたが、最近はメディアや大学などでもよく使われていますので、ウチナーンチュという表現で話します。

沖縄の海外移民の歴史は、今から111年前の1900年、このハワイに26人のウチナーンチュが到着したことで始まります。その後の10年間で沖縄移民はアメリカ本土、カナダ、メキシコ、キューバ、ペルー、ブラジル、アルゼンチン、フィリピン、ニューカレドニアへと広がっていきました。

太平洋戦争が始まる1940年の海外在留移民統計によりますと、沖縄県は5万7千人が移民として海外で生活していました。1位の広島県の7万2千人、2位の熊本県の6万5千人に次いで第3位を占めています。

しかし、人口に対する海外移民の割合で見ると、沖縄は1位で9.9%、2位の熊本が4.7%、3位の広島が3.8%ですから沖縄は全国でも群を抜いていることが分ります。当時の沖縄の人口は60万人ですから、10人に1人が海外移民として出ていたということになります。

なぜ沖縄からそんなに移民が多かったのでしょうか。14世紀から19世紀まで琉球王国があった沖縄は日本と中国の狭間という位置にありながら、独自の文化を生み出してきました。しかし、明治維新によって王国は廃止され、琉球藩、そして1979年には沖縄県となり、日本の行政制度のもとに置かれます。

20世紀初めの沖縄は産業も少なく、農業が主体で、日本のなかでも経済発展の遅れた地域でした。狭い土地に人口も多く、人々は貧困にあえいでいました。そこに海外への移民を斡旋する移民会社の募集が始まり、多くの人が海外移民としての出稼ぎの道を選んだのでした。

沖縄から出発する移民を見送る家族の言葉があります。沖縄語、ウチナーグチで「モーキィティ・クーヨー・ジンカラサチドー・フミーアトカラ」つまり「移民先に着いたら一日も早くお金を送ってください。手紙はあとでもいいから」という意味で、それほどその頃の沖縄は貧しかったし、残された家族は一日も早い移民先からの送金を待ち望んでいたのです。

しかし、パイオニアとして海外に出て行った人たちの生活は想像を絶するものでありました。ハワイでは最初の移民はホノルルから西のエワのプランテーションに入りましたが、ホーハナ(草取り)・カチケン(刈取り)・ハッパイコー(運搬)というきび畑の労働はさぞかしつらいものであったに違いありません。

ペルーに最初の沖縄移民が渡航したのは1906年のことです。36人がペルーの首都リマから450キロも離れたサンタクララという村の農場に入り、綿花栽培に従事しました。農場はスペイン人の経営でアドべという土壁の粗末な住宅に寝起きし、12時間も働かされました。

今から20年前、私は農場で働いたことのある92歳の呉屋ウシさんにリマでインタビューしたことがあります。呉屋さんは当時の様子を「ワッターヤ・ペルーンカイ・シニーガ・チョーサヤーディ・ウムタン」とウチナーグチで話してくれました。ペルーに死にに来たのかと思ったという意味で、いかに当時の生活が苦しかったかを物語っています。

ブラジルへの最初の沖縄移民は1908年。笠戸丸という移民船で325人が渡りました。コーヒー農場の契約労働者として働きましたが、その年のコーヒーは不作で、期待したような収入はありませんでした。「ブラジルに行けば金の儲かるコーヒーという木がある」と移民会社に誘われた人々にとって、まったくの期待はずれだったわけです。

このようにせっかくお金を儲けようと海外まで移民で来たのに、最初の沖縄移民が遭遇したのは厳しい労働の割には少ない収入でした。そこで彼らは農場での仕事をあきらめ、よりよい収入を求めて次々に町へと移動します。

ハワイではホノルルへ、ブラジルではサントスやサンパウロへ、ペルーではリマやカヤオへ、さらにブラジルからアルゼンチンへ、ペルーからアンデスを超えてボリビアへ、メキシコからロサンゼルスへと国境まで超えて、初期の沖縄移民は移動を繰り返しました。

これは日本のほかの地域からの移民に比べて際立った特徴でした。ハワイでは沖縄移民は「アチコチ・メン」と呼ばれ他府県の移民からは辛抱できない人たちと思われていました。ブラジルでは契約途中で農場を逃げ出してしまうことから「逃亡移民」として日本人移民のなかでも困った存在に見られていました。

なぜ沖縄からの初期移民は日本人のなかでも移動や逃亡が多かったのでしょうか。それは彼らにとって一日も早く金を貯めて、故郷の家族に送金することが重要なことだったことに他なりません。

「モーキィティクーヨー」と故郷を送り出されてきた沖縄移民は、他の日本人移民が劣悪な環境のもとでも辛抱し、忍耐強く一か所に留まるなかで、さっさと新しい稼ぎ場所を求めて移動していったのです。

パート2>>

 

* 本稿は、2011年に名誉博士号を授与された前原氏がハワイで行った日本語のスピーチ。英語版は、2012年8月17日に英字紙「ハワイ・ヘラルド(Hawaii Herald) 」に掲載されたものです。ディスカバー・ニッケイは、前原氏の承諾を得て、スピーチを再掲載しています。

© 2012 Hawaii Herald; Shinichi Maehara

Brazil hawaii immigrant issei media okinawa peru shinichi maehara uchinanchu