カリフォルニアと横浜
ペリーやマッカーサーを持ち出すまでもなく、横浜とアメリカの関係は長く深い。とくにアメリカ西海岸カリフォルニア州諸都市は横浜と航路で結ばれ、多くの人々が太平洋を行き来した。
私は昨年7月から今年3月までの8か月間ロサンゼルスに滞在し、そこで戦前から戦後という日米の激動の時代に横浜と関わった何人ものアメリカ人と会い、私たちがよく知る表舞台のそれとは異なる歴史の物語に接することができた。カリフォルニアにはそうした人たちの現代史がいたるところに埋もれている。そのいくつかを紹介したい。
日系二世の横浜
ロサンゼルスのダウンタウンにあるリトルトーキョーは、アメリカで最大規模の日本人街である。渡米してすぐ8月のある日、そこにある全米日系人博物館でボランティアガイドをするヒトシ・サメシマさんに出会った。
ヒトシさんは1921年、ロサンゼルス郊外のパサデナ市生まれ、鹿児島県からの移民二世である。雑誌売りなど苦労して進んだ南カリフォルニア大学在学中に日米開戦となり、家族とともに日系人を隔離する強制収容所に送られた。悪名高い日系人の忠誠を試す質問で、アメリカへの忠誠を宣誓してデンバー大学に入るが、卒業間際の1944年7月に召集され、フォート・スネリング陸軍言語学校に入った。
アメリカ軍は情報収集、宣伝工作などの対日心理作戦のためにいくつも日本語要員養成学校を作り、数千人の日系人を軍事情報活動、略称MISに従事させた。ヒトシさんはこうしたMISの一員として連合軍翻訳通信部に配属されて、ルソン島などの太平洋戦線をへてアイケルバーガー率いる第8軍とともに1945年10月横浜に上陸した。
横浜ではBC級横浜裁判の九州大学生体解剖事件、石垣島事件などの通訳にあたった。ヒトシさんは、米軍法廷に証人喚問された看護士がつらそうだったので励ましのメモを渡し感謝されたことなど、裁判の様子を語ってくれた。
そのころ横浜の妙蓮寺で出会った女性と山下町の米国領事館に婚姻届を出したが、披露宴も指輪もなかったという。その方のお姉さんはフェリス和英女学校の卒業生だそうだから世界は狭い。ヒトシさんへのインタビューをした時、その後アメリカに渡って苦労をともにした夫人が入院中だったが、ヒトシさんは外国人墓地や山下公園、鎌倉や箱根などに二人で行った若き日の横浜時代を一瞬うれしそうに話してくれた。
ヒトシさんはさらにMISを含む日系退役軍人の団体ゴー・フォー・ブローク(トーランス市に本部)の存在を教えてくれた。
そこで会ったケンジロー・アクネさんは1923年、カリフォルニア州ツーロック生まれ、10歳の時母親、兄弟四人と日本郵船の浅間丸で日本に来て、両親の故郷鹿児島で15歳まで過ごした。再びアメリカに戻った後は、3歳上の兄と二人だけでリトルトーキョーの味噌屋などで働きながら生き抜いた。戦争勃発後、やはり収容所に入れられたが、陸軍言語学校キャンプ・サヴェージをへて、戦時情報局(MIS)の一員となって、北ビルマで日本降伏を促す宣伝ビラ(伝単)の作成や捕虜尋問にあたった。当時の仲間にジョン・エマーソンやカール・ヨネダがいる。
終戦とともに中国から厚木をへて来日し、東京裁判や警視庁で通訳にあたった。兄(ハリー・マサミ・アクネ氏)は、その年8月28日の厚木への先遣隊第11空挺師団の一員であった。戦前日本に残った弟二人は日本軍に入り、その一人(三郎氏)は玉音放送後も徹底抗戦を叫んだ海軍航空隊厚木302空司令官小園安名(こぞの・やすな)のもとにいたというから、まさに山崎豊子の小説「二つの祖国」のような兄弟の日米戦争であった。
ケンジローさんは帰国後、この苦難に満ちた日系軍人たちのアメリカでの権利回復運動を進め、そのモニュメントが前述の全米日系人博物館の裏にある。
* 季刊誌『横濱』37号(神奈川新聞社発行)より転載