ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2012/2/27/feira/

フェイラが大好き

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遊園地でもないのに楽しい。映画館でもないのに面白いものが見られる。サーカスでもないのにカラフルで、リズミカルで、アトラクションがいっぱいだ。わたしにとってフェイラはとても魅力的な場所だ。

「フェイラ」はポルトガル語で「市場」、「朝市」のこと。17世紀からサンパウロ市にはフェイラがあった。1914年に公営化され、1948年から毎週一回各地域で行われるようになった。

わたしは1947年生まれなので、生まれたときには、フェイラはすでにあった。フェイラが開かれる通りに住んでいたので、物心付いたときから、フェイラはあたかも我家の庭の一部のようだった。決まった曜日の朝の4時頃から外は騒がしくなる。品物がトラックから道路に置かれ、店主はテントの下の台に商品を並べていく。わたしの寝室は道路に面していたので、フェイラの準備の音が耳に入ってきた。

7時頃になると買い物客が来始め、11時が過ぎると、がやがや賑わい、まるでお祭りのようだった。わたしもよく母に付いて行った。わたしが立ち止まって見とれていると、母はあきれたように「立ち止まって見ていないで、手伝って」と言われたものだ。

店主たちの「呼び声」が魅力的だった。家に戻るとリズムにのって真似したものだ。「じゃがいも~!黄色くて大きいじゃがいもだよ!」

今でも「呼び声」に反応してしまう。プロのアナウンサーでもないし、キャンペーン中の政治家でもないけれど、フェイラ商人たちはうまいことを言う。

そして、ジョークも上手。「キレイな娘は払わないでいいよ・・・」と誰かが言うと、反対の店から「・・・いいけど、持ってけないよ」と聞こえてくる。 

わたしのフェイラ巡りは長いけれど、未だに、日系人の店主がジョークを言うのを聞いたことがない。日系人の店主のほとんどはもくもく働き、ブラジル人は陽気に、しょっちゅうしゃべりながら働く。サッカーの試合、政治家やしゅうとめの悪口、そして自分の失恋話まで。話のネタは事欠かない。しかし、先日、日系人の八百屋の女性が「こう見えても、私にだって、私のために橋から飛び降りようとした人がいるんだよ」と大きな声で自慢していた。わたしはすぐ横のもう一軒の八百屋できゅうりを選んでいて、びっくりした。彼女は60代のごく普通のおばさん。ジョークにしては大胆すぎるし、本当だったら他人に言うべきことではないのにと思った。

フェイラは出会いの広場でもある。高齢者が2~3人集ると病気の話になる。日系人なら、デカセギの話だ。「うちの主人もデカセギに行ったよ。たくさん稼いでお金を送ってくれたら、戻って来なくてもいいわ!」「かわいそうに、日本に慣れなくて息子は半年で帰ってきてしまった」「○○さんは日本語ができるので正社員になったよ」、などなど。

昔、日系人の職業はクリーニング屋とフェイラの店主が多かった。フェイラでは,日系人が中心だったので、日本語が使われていた。母はブラジル生まれだったが、日本語の方が得意で、フェイラでは、ほとんど日本語で話していた。4歳ぐらいの頃、わたしも家の近所のブラジル人のおばさんに日本語混じりでこう話しかけていたことを思い出す。「Laura、今日feira行った。Milho買った。人参買った。Pastelも買った。」おばさんは首を傾げ「分かったようで、分からない」とわたしの頭をなでた。

フェイラの八百屋のほとんどが日系人だった。白菜、ほうれんそう、ゴボウ、大根、かぼちゃ。ブラジル人の主婦は「これ、なぁに」と珍しそうに見ていた。ゴボウはポルトガル語でbardanaと言うが、ブラジル人の好みでないようで,未だにゴボウはゴボウとして日系人の間だけで使われている。一方、日本かぼちゃはブラジルのabóboraより甘くて実がしまっているので、ブラジル人に受け入れられ、名前も「cabochan(かぼちゃん)」になった。

他に昔は売っていなかったもので、今フェイラに出ているものの一つはチンゲンサイ、もう一つはニガゴリ。えっ何?。ニガゴリ?。わたしは何人かに尋ねてみたが、ブラジルではゴーヤのことをニガウリでもなく、ニガゴリと言う。ゴーヤは誰も知らないようだ。

日系人の生産者と日系人の八百屋のお陰で、私たちはこのような「日本野菜」を食卓で味わうことが出来るようになっていた。しかし、80年代の後半からこの状況は変わり始めた。フェイラで「日本野菜」が手に入りにくくなった。

ちょうどその頃から日本へのデカセギブームが急に盛んになっていた。フェイラから日本人の店がほとんどなくなった。「家族全員で日本へ行ってしまった」と聞くようになって、フェイラの常連はがっかり。まるで、置いてけぼりをくったような感じがした。20数年たった今も日系人の店は昔のようにフェイラに出ていない。しかし、残った日系人の店主はいろいろ工夫して客を引き寄せている。豆腐や生シイタケ、「ふくじんづけ」とかの漬物まで用意している。

フェイラと言えばパステルのことを忘れる訳にはいかない。フェイラとパステルは最高のコンビだ。ブラジル人の99%は同意してくれると思う。フェイラに行く楽しみは揚げたてのパステルをその場で食べること。外はカリカリ、中はジューシーで、ふあっと口に広がるおいしさ。何とも言えなく幸せだ。それにサトウキビジュースの一杯かココナツ・ジュース付きだったら大満足だ。

特に、週末のフェイラでは、家族そろってパステル屋のテントの下で昼食を済ませるのが普通だ。この記事を書くために、わたしは幼なじみを誘った。ちょうど10人が集ってくれた。

この記事のために集ってくれた幼なじみとその家族。

以前からパステルに関して疑問があった。街のパステル専門店もフェイラのパステル店も、ほとんどが日系人経営であるが、なぜ、日本でパステルを見かけないのだろう。わたしは訪日3回の経験があるが、日本ではパステルを見たことがない。この疑問が今回解消した。

ブラジルのパステルは「春巻」に由来するそうだ。中国移民がブラジルの材料で作り出したのが始まりだそうだ。1890年に最初の下宿ができ、その近くで中国移民がパステル屋を始めた。

しかし、パステルを一般的に広めたのは日本移民だった。第二次世界大戦中に、日独伊三国同盟によって 日本人はブラジルで差別されるようになった。その状況から逃れるために、中国人になりすまし中国人が始めたパステル作りに取り組んだ。

その試みは成功し、パステルはどんどん人々に親しまれ、今でもB級グルメのナンバーワンだ。そして、これからもフェイラの「目玉」としてまだまだ続いていくと思う。

街は発展し、あちこちにスーパーやコンビニができたが、昔ながらのフェイラが大好きだ!

© 2012 Laura Honda-Hasegawa

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執筆者について

1947年サンパウロ生まれ。2009年まで教育の分野に携わる。以後、執筆活動に専念。エッセイ、短編小説、小説などを日系人の視点から描く。

子どものころ、母親が話してくれた日本の童話、中学生のころ読んだ「少女クラブ」、小津監督の数々の映画を見て、日本文化への憧れを育んだ。

(2023年5月 更新)

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