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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

詩歌とエッセイの文芸誌『ハートマウンテン文藝』 -その2/5

その1>>

また、ハートマウンテン収容所は10ヶ所の収容所の中で徴兵抵抗運動が組織された唯一の収容所である。その運動を推進したのが「ハートマウンテン・フェアプレイ委員会」(Heart Mountain Fair Play Committee)であった。

ハワイ出身の二世キヨシ・オカモトが1943年11月に一人でつくった「一人だけのフェアプレイ委員会」(Fair Play Committee of One)が支持を得て発展していった組織で、1944年1月から運動を積極的に展開した。彼らは、正当な手続きを経ない日系アメリカ人の収容は違憲であるとして、アメリカ市民としての権利が回復されない限り、徴兵委員会には出頭しないと主張した。そしてJACL支持派の収容所の新聞『ハートマウンテン・センチネル』(Heart Mountain Sentinel)(英語版、編集長はビル・ホソカワ)から全面的な攻撃を受けたにもかかわらず、数百人の二世の会員を獲得したのである。彼らの主張が『ロッキー新報』(Rocky Shimpo)のジェイムズ・オオムラ(James Omura)によって支持されたことはよく知られている。しかし委員会の指導者たちは扇動罪で連邦重罪犯刑務所へ送られ、徴兵身体検査を拒否した63名は懲役刑を言い渡された。彼らの名誉が回復されるのは戦後になってからである。1947年、トルーマン大統領がすべての徴兵抵抗者に謝罪を行っている。

他方、住民内部の対立の例として二世の中のJACL支持派と反JACL派の対立がある。これについては忠誠登録反対運動と徴兵抵抗運動のところで触れた。また、ことばと文化の相違から生まれる二世と帰米二世の間の意思疎通の欠如と違和感がこの収容所でも見られた。さらに一世と二世の世代間のずれもいっそう明らかになった。突然の立ち退きと収容所への隔離は、かつて家庭やコミュニティを経済的文化的に支配していた一世の権威を奪い去っていたし、収容所は言語や組織の上ではアメリカ社会であり、二世が主導権を握っていた。またアメリカ市民権を持つ二世にとって一世の祖国は敵国であった。一世の挫折感は内向し、関心の対象は公的なものから身近な私的なものへと移っていった。

ハートマウンテン収容所と外部の人たちとの関係はどのようなものだったのだろうか。収容所がワイオミング州に建設されることについて、人種的偏見から州の人々は反対した。それにもかかわらずハートマウンテンが建設地に選ばれた理由の一つは近くのコウディとパウエルの人々が強く反対をしないだろうと予想されたからだった。パウエルは農業労働力の不足に悩んでおり、収容所建設がもたらす経済的恩恵も望んでいた。コウディも同じような経済的恩恵を期待していた。そして実際、二つの町とも期待どおりの恩恵を受けることができたのであった。このような理由で1942年8月12日の開所から数ヶ月間、収容所の住民と外部の人たちの関係は比較的良好だった。秋の収穫期に収容所の人々が外へ応援に出かけていって大きな成果を上げ、ワイオミングの農場主は満足し、収容所の人々も自由な空気を吸い、賃金を手にする機会を持つことができて喜んだ。

1943年の春から夏にかけて、ハートマウンテン収容所は外部からの激しい攻撃に晒された。政党間の争いとそれに利用された人種的偏見から生まれた攻撃であったが、その急先鋒は、『デンバー・ポスト』(Denver Post)のジャック・カーベリー(Jack  Carberry)だった。彼は収容所の中の生活を偏見と歪曲をもって描き、報道した。収容所への批判は急速に拡大したが、『ハートマウンテン・センチネル』(英語版)とWRAによるジャック・カーベリーへの反論とともに、収容所の住民による1943年秋の収穫の応援や二世部隊への志願によって、その攻撃も和らいでいった。しかし基本的には、日系人に対する根深い人種的偏見はその後も続いていくのである。

2.ハートマウンテン収容所の文学活動

WRAは様々な文化活動や学習活動を積極的に奨励した。住民たちの不満を緩和し、不安と空虚感に囚われがちな彼らに生きがいを持たせるためであった。住民もそのような方針に対して積極的に応じた。文学活動として、高柳沙水の下に「心嶺短歌会」が、常石芝青、藤岡無隠(紫朗)・細江夫妻を中心に俳句の「ハート山吟社」が、黒川剣突を指導者として「ハートマウンテン川柳吟社」が結成されている。詩や散文の組織はなかった。高柳沙水は戦前、『加州毎日新聞』の「歌壇」担当者であり、北米歌壇の指導者の一人であった。常石芝青は有力な俳句の結社「たちばな吟社」の同人であり、『加州毎日新聞』の応募俳句の選者を務めていた。黒川剣突は1910年代からアメリカで活動を始め、本多華芳とともに北米川柳界の「開祖」といわれた人である。黒川は1944年2月11日、この収容所で亡くなっている。ハートマウンテン収容所で文芸活動がかなり活発であったのは、このように指導者に恵まれていたからである。この三つの結社の活動が支えとなって生まれたのが『ハートマウンテン文藝』であった。

文芸誌として『ハートマウンテン文藝』以外に、『北米短歌』が発行されていた。高柳沙水の「心嶺短歌会」の機関誌で、1944年7月に創刊され、二回発行しただけで終っている。

短歌や俳句、川柳は『ハートマウンテン・センチネル』(日本語版)にも掲載された。1943年(1月1日付け)と1944年(1943年12月31日付け)の新年特集号ではかなり多くの作品が載せられている。通常号はページ数が少ないこともあり、短歌が時々載るに過ぎない。この新聞の短歌の選者は高柳沙水、俳句は常石芝青、川柳は黒川剣突(彼の死後は黒川雨荘)であった。

参考までに、ハートマウンテン収容所における英語で書かれた文学についても簡単に記しておきたい。既に触れたように、この収容所には1930年代にジャーナリストとして活躍し、また短編も書いていたビル・ホソカワ(Bill Hosokawa)が『ハートマウンテン・センチネル』(英語版)の編集長であったし、同じく1930年代にニッケイ新聞にエッセイ、評論、短編、詩を多数書いたメアリ・オオヤマ(Mary Oyama)(ジョウ・オオヤマの妹)もいた。しかしトパーズ収容所とは違い、ここでは英語の文芸作品は余り掲載されていない。1943年の新年特集号に作者不明の短編『少年用の靴』(A Pair of Boy’s Shoes [sic])とケイ・マスダ、フレッド・ヤマモト、ヤスコ・アマノ、ジョン・キタサコなどの詩が見えること、1943年8月12日付の収容所開設二周年特集号にミユキ・アオヤマなどの詩が載せられていることが目につく程度である。これらの作品の中で、ケイ・マスダの詩「立ち退き者」(”Evacuee”)は父に対する二世の心情を歌っていて、興味深い。総じて、ハートマウンテン収容所における英語文学は低調であったといえる。ただ、ビル・ホソカワが収容所の外の新聞『コウデ・エンタプライズ』(Cody Enterprise)にコラムを担当してエッセイを書き、メアリ・オオヤマも外部の新聞『パウエル・トリビューン』(Powell Tribune)に同じようなコラムを持っていて、好評であったことに注目しておきたい。

その3>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

© 1998 Fuji Shippan

heart mountain Heart Mountain Bungei Japanese Japanese literature

このシリーズについて

日系日本語雑誌の多くは、戦中・戦後の混乱期に失われ、後継者が日本語を理解できずに廃棄されてしまいました。このコラムでは、名前のみで実物が見つからなかったため幻の雑誌といわれた『收穫』をはじめ、日本語雑誌であるがゆえに、アメリカ側の記録から欠落してしまった収容所の雑誌、戦後移住者も加わった文芸 誌など、日系アメリカ文学雑誌集成に収められた雑誌の解題を紹介します。

これらすべての貴重な文芸雑誌は図書館などにまとめて収蔵されているものではなく、個人所有のものをたずね歩いて拝借したもので、多くの日系文芸人のご協力のもとに完成しました。

*篠田左多江・山本岩夫 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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