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https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2011/5/23/issei-pioneers/

一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その21

>>その20

創造力溢れる心

一世たちは、厳しい毎日の生活の中にも芸術を楽しむ時間を見いだしていた。町には伝統的な踊りや歌を習い披露したり、三味線、琴、尺八、琵琶などを演奏する同好会がつくられた。ハワイでは、沖縄古典演芸が人気を集め、中でも三線と呼ばれる伝統楽器の演奏家で師匠でもあった、ナカガネク・コスケ(1908-1900)は、とりわけ有名だった。

またハワイでも本土でも素人劇団が結成され、劇場やホール等で狂言、新派、歌舞伎などを演じた。

どの一世コミュニティーでも人気があったのは日本からの無声映画で、ハワイ各地の耕地の町やアメリカの大小コミュニティーを巡回した。無声映画には、三味線弾きを伴い、全ての役回りを勤めた弁士の存在が欠かせなかった。

一世の中には、アメリカ無声映画のスターとなった人もいた。早川雪舟は、1910年代、1920年代に二枚目俳優として国際的に知られ、120本を超える映画に出演した。1920年の時点で、彼は週に7,500ドルを稼ぎだし、32部屋を有する彼の豪邸にはフランシス・X・ブッシュマン、ルドルフ・バレンチノ、メアリー・ピックフォードなどの友人が訪れた。

一世コミュニティーには、詩歌の同好会もたくさん生まれた。一世の歌人たちは地元の邦字新聞に自分の作品を投稿し、名前を知られる者も現われた。その1人に、1921年に渡米しワシントン州ヤキマ・インディアン居住区で農業を営んでいた富田貞子がいる。彼女の作品は伝統的な短歌の形式に、斬新な隠喩、イメージ、表現、それに生活体験を織り込んだものであった。1

来む春に芽吹かむ確かさ信じつつ丹念に接ぐさくらの苗木2

一世芸術家の中で、自分の技術で生計を立てることができたのは、結婚式や葬式に必ず立ち会った写真家たちくらいであった。一世写真家の中でも最も有名なのは、ロサンゼルス・リトル東京のコミュニティー公式カメラマンであり指導者でもあった宮武東洋(1895-1979)だった。

宮武はロサンゼルスで菓子店を開いていた父親に呼び寄せられて、1909年に渡米した。しかし、彼は店で働くうちに自分が菓子屋には向いていないことを実感した。本当は芸術家になりたかったが、生活のことを考えて写真家の道を選んだのである。3

1918年、宮武は、著名な写真家で、リトル東京のサンピドロ通りとセカンドストリートの角のホテルで写真技術を教えていたハリー重田の元で修行を始めた。そして、その後しばらくは友人の写真を撮って生計を立て、遂に1923年、宮武写真館を開業したのである。日米戦争中、彼はマンザナー日系人強制収容所の日常生活をレンズに収めて有名になった。

Graduation photo of Henry Sugimoto from California College of Arts and Crafts, Oakland, California, 1928 (Gift of Madeleine Sugimoto and Naomi Tagawa, Japanese American National Museum [92.97.147])

絵画の分野で有名なのは、ヘンリー杉本(1900-1990)である。彼は特にアーカンソー州ジェローム、ロウワー両強制収容所の生活を、胸を打つ描写で表現したことで有名である。しかし、収容所では絵を描くことさえ困難だった。彼によれば、1942年に家族とともフレズノ一時収容所(集合センター)を出て強制収容所へ向かう際、「顔料を数本、筆を3本、それにテレビン油の小さな瓶1個を一緒に持ち出した。しかし、紙もキャンバスも持っていなかったので、シーツやマットレスを使った。運がいい事に、マットレスの袋は集合センターから持ち出すことができたので、それを広げて、その上に絵を描いた。」4

和歌山県出身の杉本は、18歳の時にカリフォルニア州ハンフォードの両親のもとにやって来た。高校卒業後、カリフォルニア大学バークレイ校に入学、その後カリフォルニア芸術大学に転校し、1928年に芸術学士号を受けた。翌年、杉本はパリに留学し、そこで展覧会を開いたりもした。そして、彼は1990年5月8日にこの世を去るまで、多様な創作活動を続けたのである。

ルネッサンス芸術の申し子で、様々な芸術の橋渡しをしたのは、サダキチ・ハートマン(1867-1944)である。「ボヘミアの王」と呼ばれたハートマンは、1890年代から、作家、講師、詩人、舞踊家、そして国際的に有名な芸術評論家として名を成した。彼は、長崎県出身で裕福なドイツ人貿易商の父と日本人の母の間に生まれ、母親が産後すぐに死亡したため、ドイツの伯父と伯母の手で育てられた。ハートマンは私立学校に通い、9才の頃には既にゲーテやシーラの作品を全て読破していた。14才の時、海軍兵学校を勝手に中退しパリへ行ったことで父親と衝突したのを契機に、彼はアメリカ在住の伯父の元へ向かったのである。

ハートマンは多岐にわたる才能と優れた独創性により、芸術の「開拓者」となり、著名な知識人や芸術家達のサークルに属するようになった。天才と自称する彼は、いつも「こんな日には、ウィーンのカフェにはロダンとホイットマン、それに私(という天才)がいて、3本のビールを飲みながら...」などと自慢げに話を始めるのであった。5

W. C. フィールズに「飲んだくれでろくでなしの浮浪人」と言われたり、ベン・ヘットに「荒くれの気取り屋」とからかわれたりしながらも、ハートマンは、ウォルト・ホイットマンから賞賛され、死後25年に渡り「サダキチ・ハートマン・ニューズレター」が発行されるほど一部の人々には尊敬されていた。彼のアメリカ美術界、写真界に対する貢献は、1960年代以降にようやく一般的に認識されるようになった。6

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注釈:
1.Gail Nomura著、“Tsugiki, Grafting: A History of Japanese Pinoneer Woman in Washington State”詳細は、Karen J. Blair編、Women in Pacific Northwest History(ワシントン、1988)207-230ページを参照。
2.富田貞子。伊藤一男著、「北米百年桜」539ページ。
3.宮武東洋インタビュー。“A Life in Photograph: The Recollections of Toyo Miyatake”(くレア紋と大学大学院オーラル・ヒストリー・プログラム、1978)10ページ。
4.Deborah Gresensway、Minday Roseman共著、Beyond Words, Images from America’s Concentration Camps(イサカ、1989)36-37ページ。
5.The Life and Times of Sadakichi Hartmann, 1867-1944(リバーサイド、1970)6ページ。カリフォルニア大学リバーサイド校での特別展示会用のカタログ。
6.詳細は、Harry W. Lawton、George Knox共編、The Valiant Knights of Daguerre(バークレー、1978)を参照のこと。

*アメリカに移住した初期の一世の生活に焦点をおいた全米日系人博物館の開館記念特別展示「一世の開拓者たち-ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924-」(1992年4月1日から1994年6月19日)の際にまとめたカタログの翻訳です。  

© 1992 Japanese American National Museum

演技 俳優 アーティスト 芸術 ダンス エンターテイナー ヘンリー杉本 一世の開拓者たち(展覧会) 全米日系人博物館 全米日系人博物館(団体) 音楽 早川雪洲 宮武東洋
執筆者について

アケミ・キクムラ・ヤノは、カリフォルニア大学ロサンゼルス校アジア系アメリカ人研究センターの客員研究員です。カリフォルニア大学ロサンゼルス校で人類学の博士号を取得しており、受賞歴のある作家、キュレーター、劇作家でもあります。著書『過酷な冬を乗り越えて:移民女性の人生』で最もよく知られています。

2012年2月更新

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