ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2011/5/16/issei-pioneers/

一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その20

>>その19

コミュニティーの行事


移民生活初期、最も重要視された社会行事は11月3日の天長節(明治天皇誕生日)だった。当初、ハワイの砂糖きび耕地では天長節を休日と認めなかったが、一世労働者は勝手に仕事を休み、飲めや歌えやのお祝いをした。彼らは三味線をかき鳴らし、夜通し食べたり踊ったりして過ごした。1結局1890年代中期までに、耕地主は日本人労働者が天長節を祝う権利を契約書に盛り込まざるをえなくなった。

田沢長蔵氏の家族によって記録された香典の額を書いた書類、1928年。(Gift of Haruno Tazawa, Japanese American National Museum [97.90.1])

しかし、天長節を除けば、一世にとっては誕生日より葬式が大切だった。彼らは葬式を通じ、家族や日本人社会全体の繋がりを再確認するのだった。そのため、家族、親類、知り合いの葬式への出席は当然の義務であると考えられており、その規模は相当大きくなるのが普通だった。葬式の出席者数は、死者の富とコミュニティーでの地位を象徴していた。地元の写真屋が必ず呼ばれ、式後、参列者全員のパノラマ写真を撮った。この写真は後に死者が手厚く葬られたことを示すため、日本へ送られ故郷の家族を慰めた。

葬式では死者の友人や親戚が遺族に香典を渡し、その費用を援助するのが日本の習慣だが、アメリカでは一世たちに親類がいなかったので、そのかわりコミュニティー全体が遺族を助けたのである。

田沢ハルノは自分の夫の葬式を出すために、友人から多大な援助を仰がなければならなかった。ハワイのエワ耕地でルナ(労働監督者)をしていた田沢長蔵は、1928年1月3日に54歳で亡くなり、後にはハルノと2歳から9歳までの4人の幼子が残された。長蔵には1ヶ月85ドルの稼ぎがあったが、彼の賭博癖のために一家の金庫には35セントしか残っていなかった。ハルノはそれだけのお金では線香すら買うことができず困り果てていると、友人が葬式代を集めてくれたのである。現在では、ハルノも年金を貰い多少の贅沢は出来る身の上だが、その時の情けなさで未だに表を胸を張って歩けないと語っている。2

子供たちがもっとも楽しみにしていたのはお正月だった。年末になると一世たちは借金を清算し、その他の問題も片付けて新年に備えた。また年賀の挨拶に来るお客のために、おせち料理の準備をする家庭もあった。

故郷の味なつかしむ雑煮かな3

羽子板(Gift of the Yogi Family [89.32.1 / 89.32.1A]), 、百人一首(Gift of Tamateru and Sunao Kodama, Japanese American National Museum [90.21.1])

元旦の朝は、木杵を手にした男たちが餅をつくリズミカルな音とともに始まった。家族はお互いに挨拶をしながら席に着き、年齢順におとそを飲んだ。その後、つきたての餅を入れた雑煮を食べるのが決まりだった。食事が終わると、女の子は羽子板と羽をプレゼントされ、男の子は百人一首に興じた。

百人一首は101首の短歌で構成され、読み手が上の句を音読すると、2つのグループに分かれた参加者が下の句のカードを取り合うゲームである。古語でつくられた子供には難しい短歌だが、アメリカでも二世たちが一生懸命に暗記して遊んだのである。

子供たちの横では、一世たちが「おけさ節」などの流行歌を聴きながらおせち料理に舌鼓を打ちお酒を飲んだ。彼らは懐かしい正月の雰囲気に浸り、日本の故郷のことを思い出すのであった。一世は、アメリカへやって来てから何年経っても、元旦にはおせち料理や雑煮を食べることを止めなかった。しかし、二世のなかには短歌を暗唱できるほどの日本語力を持たないものが次第に増えてきて、百人一首のカードもだんだん押し入れに仕舞われたままになった。

お正月にむけて餅つき、1915年。(Gift of Sue S. Ando, Japanese American National Museum [93.34.1])

夏になると日本人社会では太平洋の彼方に眠る先祖に感謝し、死者の霊を迎えるお盆祭りが開かれた。しかし、二世の間ではもともとの意味は殆ど忘れられ、道端に飾られた提灯のもと色鮮やかな浴衣を着て、三味線や太鼓の音楽に合わせて踊る楽しいお祭りが彼らにとってのお盆であった。

宮崎きくは、約600人が出身県別のグループになり音楽や歌に合わせ、櫓の周りを輪になって踊ったシアトルのお盆のことを今でもはっきりと覚えている。「店先には日本情緒をただよわせる提灯がともり、多くの白人も見物におしかけ、沿道はびっしり人垣を築く。さながら『ジャパンナイト』だった。」4 踊りは出身県によって違っていた。ある沖縄出身者の話では、山口県岩国の盆踊りは太鼓を叩くだけだが、沖縄のは踊り手がくるくる回るなどいろいろな種類があったそうである。5

夏はコミュニティー・ピクニックの季節でもあった。長田政子は第二次世界大戦前のワシントン州タコマの7月を思い返した。「...仏教会、県人会や業種別のグループなどで、ダッシュ・ポイントやブラウン・ポイント、フォックス島へピクニックに出かけた。...それぞれ、おすし、羊かん、ゆでタマゴなど純日本的なお弁当をととのえて出かける。...釣り好きの人は、ロッカド(鱈の一種)を釣りあげ、焼いて食べた。」また、イカや貝は刺身にした。そこでは、政子も他の人々も皆、日本の民謡に合わせて歌った。

タコマよいとこ一度はおいで どっこいしょ
山にゃ松茸 こりゃ 海にゃタコよ
チョイナ チョイナ6

ピクニック空を見上げて若返る
子や孫とともに楽しむピクニック7

一世の間では、相撲、剣道、柔道など日本の伝統的なスポーツがとても盛んであった。また、野球はハワイでも本土でも人気を集めていた。一世の野球熱の高まりは、1901年、ハワイの奥村多喜衛牧師が教会の寄宿舎の若者を集めて野球チームをつくったのを始まりとしている。そして数年の内に、多数のチームが結成され、耕地ごとに、または他人種チームと試合をするようになった。アメリカ本土でも、各コミュニティーで組織した野球チームが西海岸を北へ南へと遠征して対戦し合うほど盛んになった。

Nisei baseball team uniform with shoes and mit of Fred Kishi, Livingston, California, ca. 1937. (Gift of Fred Kishi [91.97.1A / 91.97.1B / 91.97.3 / 91.97.4]), Japanese fencing uniform and equipment of John Kobashi, Date unknown (Gift of the John Kobashi Family [91.89.1-6/91.11]), Kendo sticks (gift of Norio Mitsuoka [91.11.16]), baseball bat of George Omachi (Gift of George Hats Omachi, Japanese American National Museum [91.50.3])

その21>>

注釈:
1.永山セイチン、インタビュー。Uchinanchu 、472ページ。
2.田沢ハルノ、1984年1月15日バーバラ・カワカミによるインタビュー。
3.竹風。伊藤一男著、「北米百年桜」858ページ。
4.宮崎きく。伊藤一男著、「北米百年桜」936ページ。
5.永山セイチン、インタビュー。Uchinanchu、472ページ。
6.長田政子。伊藤一男著、「北米百年桜」932-933ページ。
7.中川チエ。(ロサンゼルス、1991)

*アメリカに移住した初期の一世の生活に焦点をおいた全米日系人博物館の開館記念特別展示「一世の開拓者たち-ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924-」(1992年4月1日から1994年6月19日)の際にまとめたカタログの翻訳です。 

© 1992 Japanese American National Museum

感情 天皇誕生日 家族 フェスティバル 葬儀 一世の開拓者たち(展覧会) 全米日系人博物館 全米日系人博物館(団体) 香典 祭り 弔事のマナー 同情 天長節
執筆者について

アケミ・キクムラ・ヤノは、カリフォルニア大学ロサンゼルス校アジア系アメリカ人研究センターの客員研究員です。カリフォルニア大学ロサンゼルス校で人類学の博士号を取得しており、受賞歴のある作家、キュレーター、劇作家でもあります。著書『過酷な冬を乗り越えて:移民女性の人生』で最もよく知られています。

2012年2月更新

様々なストーリーを読んでみませんか? 膨大なストーリーコレクションへアクセスし、ニッケイについてもっと学ぼう! ジャーナルの検索
ニッケイのストーリーを募集しています! 世界に広がるニッケイ人のストーリーを集めたこのジャーナルへ、コラムやエッセイ、フィクション、詩など投稿してください。 詳細はこちら
サイトのリニューアル ディスカバー・ニッケイウェブサイトがリニューアルされます。近日公開予定の新しい機能などリニューアルに関する最新情報をご覧ください。 詳細はこちら