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ヘンリー&ヘレン・ヤスダ夫妻: 家族の大切さ、日系の価値観 - その2

その1>>

ヘンリーとヘレンの結婚式から数日後、ヘンリーは韓国へ渡りました。8か月の赴任の後、ヘンリーは東京の本部へ移動することになり、そこでヘレンは合流しました。「何よりもまず最初にしたかったのは、山口の両親が生きているうちに彼女を連れて行き、家族に紹介することでした」とヘンリーは語ります。「日本のお母さんって、息子の嫁を評価したがるでしょう?」とおどけた様子でヘレンが応えると、「母は彼女を連れて村中に紹介して回ったんですよ」とヘンリー。「そうするより他になかったからでしょう!」とヘレン。

1954年第502軍事情報大隊に所属していた頃のヘンリー。韓国にて。

ヘンリーは、調達契約担当官として東京で10年働き、日本の国内企業との数百万ドルの契約締結のための任務に就き、米軍の極東における軍事作戦の遂行を支えました。5人の子供たちのうち4人は日本で生まれました。日本に行ったことでヘンリーの両親と会えただけでなく、ヘレンは、面識も情報もなかった彼女自身の親戚について知ることができました。ヘレンの両親は、自分たちが日本に何を残し、また、なぜアメリカに渡ったのか、決して口にすることはありませんでした。「私たちの世代は、両親に質問なんてしないんですよ」とヘレン。「両親には、ただ従うだけです。でも、2人に聞きたかったですね。なぜ来たのか。父は長男ではなかったので、将来にあまり期待できなかったのかもしれませんね。日本では、長男が全てを継ぎますからね」

日本で長男が継ぐのは一家の財産だけではなく、家族に対する責任もです。ヘンリーは、同じように帰米である自分の兄弟全員をアメリカに帰国させました。また、両親と祖父母がアメリカの永住権を得られるよう法的な手続きを行いました。

ヘンリーは、自分が成し遂げたことの中で、一家の拠点を再びアメリカに戻したことを最も誇りに思うと語ります。また、ヘンリーは、自身のキャリアの成功のためにも東京で必死に働きましたが、父は、「人生でいかに幸せを手にするかは、家族全員が幸せであるかどうかにかかっている」と忠告しました。そしてカリフォルニアへ戻り長男の役割を全うすべく、家族ビジネスの創業を促したのです。ヘンリーは全てをリセットし、父と3人の弟たちと共に、スーパーの経営に乗り出しました。創業した店舗から小規模のチェーン店にまで事業を拡大し、週7日の長時間営業することで、業界の厳しい競争を勝ち抜きました。ヘンリーは、還暦に手が届くまでの26年間、この多忙なスケジュールで働き続けました。

1964年アメリカン・プレジデント・ラインズのクルーズ船で日本からアメリカへ戻るヤスダ一家。

日本では、60歳の誕生日を人生の重要な時期と位置づけています。旧暦上5周すると還暦の年にあたり、人の一生の年月と考えられていました。60年以上生きることは、生まれ変わることを意味しました。ヘンリーが還暦を迎える頃、彼の祖母は、亡くなる直前に彼にこういい残しました。「あなたが成し遂げたことは、それが大きなことでも、小さいなことでも、周りの人たちのお陰でできたことなのよ。」祖母のこの遺言は、還暦を迎えた彼がその後どう生きるかの指針となりました。

1988年、還暦を迎えたヘンリーは退職を決め、新たな人生をコミュニティへ捧げることにしました。ヘンリーは、東本願寺でのボランティアを始め、両親の出身地だった山口の県人会でボランティアをすることにしました。「ある日、博物館の人たちが来て、私にこう言いました。『全米日系人博物館を建てることにしました。博物館の目的は、日系人コミュニティの親善を深めることの他に、日本との相互理解の促進です』」ヘンリーとヘレンは、博物館の最初のツアーガイドグループに入り、トレーニングを始めました。

「(博物館の)ナンシー・アラキさんから、『展示が始まれば日本からもたくさんの来場者が来るから、日本語の解説案内ツアーを組んでほしい。委員会を立ち上げて、トレーニングや準備を始めてほしい』との依頼がありました。そして何人かを集めて、たたき台となる案を作りました。展示が始まると、日本からたくさんの人たちが来館しました。当時の海部俊樹首相がいらっしゃった時のことはよく覚えていますよ。天皇陛下もご来館くださいました。また、清子内親王や小渕首相を全館に渡りご案内させていただいたことは大変光栄なことでした。」

ヘンリーは英語と日本語を流暢に話しますが、皇室からの来訪に際して自身の日本語力に不安を感じたと言います。「皇室の方々とお話する時の言葉遣いは普段とは異なります。私は内親王をどのようにお呼びすべきかわからなかったので、総領事館に問い合わせました。日本語では、『You』は一つの言い方に統一できません。アメリカではそのまま『You』ですが、日本では、相手によって『あなた』、『君』などと言い換えるのです。『あなた』ではなく、『妃殿下』という敬称を使うよう教わりましたが、結局私がずっと話をし、清子内親王は、『はい』と相槌を打たれるだけでしたが、とても楽しかったですよ。」1999年、ヘンリーは、博物館で行われる優秀なプログラムに贈られる賞を受賞しました。

ヘンリーは、主に日本からの来場者のツアーガイドをしていますが、ヘレンは博物館ボランティアとして様々な役割を担ってきました。「博物館のほとんどすべての委員会に何かの形で関わってきました。でも、基本的には、団体で来館する学生へのツアーガイドが私の役割です。」ヘレンは、地域の奉仕活動にも携わり、幅広い年齢層から成る地元の団体やグループと活動しています。ツアーガイドのボランティアとして、博物館の紹介の他にもお話し会や太鼓、折り紙やその他のアクティビティ等を出張で行う活動も率先して行ってきました。また、ヘレンは博物館にメンバー登録した人々への感謝イベントに参加したり、お盆やAsian Heritage Monthといったお祝いの時期にはそれらの祝賀イベントにも参加しました。

ヤスダ夫妻の博物館への関わりは、現在の、そして伝承されていく一家の価値観をより強固なものにし、子供たちが見習うべき見本となりました。また、ヘレンは、一番下の子供が高校へ進学した後、途中だった大学の学業を終えるためにロサンゼルスのカリフォルニア州立大学へ戻りました。より一層教育の大切さを確認することになります。立派に成長した5人の子供たちは全員がそれぞれ成功し、各々の家庭を築いています。「その時期が来れば、子供たちも皆博物館でボランティアをすると思う。でもまずは、自分の家族を育ててからね。」とヘレンは語ります。

ヘンリーには、日本からの来訪者へ伝えたいメッセージがあると言います。「私が彼らに伝えたいのは、日本人が外国で何を成し遂げてきたか、また、なぜ彼らが成功したか、ということです。最善を尽くし頑張る、という基本的な姿勢に忠実だったから、彼らは成功したのです。それから、やり抜くこと、できるだけ良い教育を受け、成功すること、そしてコミュニティに還元することです。私は、日本の人たちにこういった価値観を伝えています。日系人の成功は、このような考え方に由来していると言えます。私たちの両親や先祖はこの価値観と共に海を渡り、私たちに受け継いでくれたのです。お陰様で、という感謝の念を持つこともそうですね。私たちは、お陰様で成功することができたのです。アメリカのように多様性に富む社会の中に生きていると、私は自分が日系人であることを誇りに思うことができます。」ヘンリーとヘレン・ヤスダ夫妻の存在は、「大和魂」をますます輝かせていました。

ヤスダ一家

© 2011 Japanese American National Museum

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