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https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2011/4/20/henry-helen-yasuda/

ヘンリー&ヘレン・ヤスダ夫妻: 家族の大切さ、日系の価値観 - その1

ヘンリー&ヘレン・ヤスダ夫妻の家には、「大和魂」と書かれた掛け軸が飾られています。この言葉は、2人を長年支えてきた日本人の価値観、すなわち、最善を尽くすこと、家族を一番に考えること、教育を重視すること、感謝の気持ちを表すこと、を思い出させてくれているのです。ヤスダ夫妻は、全米日系人博物館で活躍する最も長いボランティアメンバーの一人であり、1992年に博物館がオープンして以来、2人は自らの知識を来館者と共有してきました。夫妻は、博物館やNikkei Parents’ Day Coalition(日系人の親の日を祝う団体)を通して、日系の価値観を守り、また継承することに努め、日系の個人や家族、コミュニティを力づけるべく、尽力してきました。また、1996年2人は、Nikkei Parents’ Day Coalitionよりその年の最優秀日系人両親に選ばれました。ここでは、最近行った夫妻へのインタビューとヘンリーの自叙伝「大和魂」を基にこのお二人についてご紹介します。

祖母サトに抱かれるヘンリー。父セイイチと母ツル、姉のサヨコと共に。

ヘンリー・ショウイチロウ・ヤスダさんは、6人兄弟の長男として1928年にカリフォルニア州パサデナで生まれました。10歳までアリゾナ州メサで育った彼は、その後日本へ帰国しました。そして、30年間アメリカで暮らし日本へ帰った祖父母の元で、日本の教育を受けることになりました。日本へ渡ったばかりの頃は、「ガイジン」と呼ばれたり、いじめられることもありましたが、努力の末に日本語を習得し、学校では全ての教科で優秀な成績を修めるようになり、いつしかクラスのリーダー的存在になりました。

中学の学生服を着たヘンリー。

ヘンリーは、父の母校である難関校の徳山中学校を受験し、合格しました。1人寄宿舎に入ったヘンリーは、アメリカの両親はもとより、祖父母からも離れて暮らし始めることになります。「人生で最も寂しかった時」と語る一方、「私を突き動かしていたのは、『我慢』『一生懸命』『恥』の精神」とヘンリーは当時を振り返ってくれました。

アメリカに残っていたヘンリーの両親は、戦時中テキサス州クリスタルシティーに強制収容されました。戦後、それに絶望した彼らは戦後日本での苦労を予測しながらも、日本への帰国を決めます。当時のヘンリーは既に日本の大学で2年間の学業を終えており、アメリカの大学に編入し、より多くを学び、幅広い様々な機会を手にしたいと考えていました。当初反対していたヘンリーの父も、「その固い決意とお前の粘り強さ、勤勉さがあれば、アメリカでも何だってできる」と言い、彼の決断を受け入れてくれました。ヘンリーはカリフォルニア大学バークレー校に編入し、1953年経営学で学士号を取得しました。
そして、そこでヘンリーとヘレンの出会いが待っていたのです。

日系二世のヘレン・チズコ・イノウエさんは、ヘンリーと同じように6人兄妹の家庭で育ちました。両親は10代で移民し、サクラメントで結婚した後、フレズノで直売農家になりました。戦時中、ヘレンの一家はアーカンソー州ジェロームとローワ―に収容されましたが、一時的に収容所を出てユタで生活をしました。「後見人さえいれば、西海岸に戻らないことを条件に収容所を出ることを認められたんです。でも、収容所に残った祖父が病気になったので、私たちは再び収容所へ戻りました」とヘレンは当時について話してくれました。

そして終戦前の1945年春、イノウエ家はフレズノに戻りました。「私は家族にとても恵まれていたと思います。戦中の異常事態にありながら、両親は、私たちが事態をあまり深刻に感じないようにと、上手く隠してくれていました。そして何より、家族が離れ離れにならないよう最大限の配慮をしてくれました。両親は、私たちを安全な環境に置き、いつも守ってくれていました」

ヘレンが通った高校には、彼女の他にもう1人日系人の生徒がいるだけでした。成績が良かったヘレンは、大学への進学を希望しました。「私がバークレーに行けるよう、近所の人たちも一緒に父を説得してくれたんです」とヘレンは話してくれました。そして、ヘンリーがバークレーに編入した1952年、ヘレンもまた父親に同大学への進学を許されました。ヘレンは、自分がとても恵まれていると感じていました。

ヘンリーとヘレンが出会った頃、アメリカは朝鮮戦争の真っただ中にありました。ヘレンの母は亡くなり、兄が兵役に就いていたので、ヘレンの姉が実家で父や弟たちの世話をし、家や畑の管理をしていました。しかし、その姉が結婚することになり、ヘレンは大学を休学せざる終えなくなりました。「姉は、結婚式を挙げるのは私が学期休みに入るまで待ってくれたのですが、その後、私は家に戻るよう言われ、そのまま父を助けることになったのです」

この頃、ヘンリーはすでにバークレーを卒業していました。「1953年に卒業しました。学生の時に徴兵されるところでしたが、猶予されました。当時は、上位25パーセントの成績を修めていれば、卒業まで兵役を猶予されていたんです。」ヘンリーは、卒業後フォート・オード基地での基礎的な軍事訓練を終えると、日本語能力を買われ、軍事情報部で尋問官と通訳を兼務することになりました。朝鮮半島への赴任が決まり、出発まで2週間の休暇を与えられた頃、偶然にもヘレンの兄が結婚式を挙げることになりました。「2人は私を結婚式に招待してくれました」ヘンリーは当時を振り返ります。「そう、それで私は結婚式に参列し、ヘレンにも会い、式が終わる頃、私たちは一緒に踊ったんです。そして私たちは突然結婚を決めたんですよ」

1954年5月ヘンリーとヘレンはリトルトーキョーの西本願寺で結婚。

2人のストーリーは、いよいよクライマックスを迎えます。「その夜、僕は彼女を送るついでにイノウエ家にお邪魔しました。義父の寝ている寝室へ行き、ヘレンが『私たち、結婚するわ』と言ったんです。義父はベッドから転げ落ちて、やっとのことで口を開き、『遅かれ早かれ結婚するのはわかっていたけれど、もうすぐ海外赴任になるのだから、もう少し待ったらどうだ?』と言ったんですよ。でも私たちが『待てません』と言うと、義父は、『わかった』と承諾してくれました」

結婚式の準備に充分な時間はありませんでした。ある日の午後、ヘンリーは式の予約をするため、リトル東京の寺を訪れ、こう言いました。「早ければ早いほどいい。できれば今週末!」ヘンリーは結婚式のためのカメラマンを依頼し、20名を招く披露宴会場として中華料理店を予約し、フレズノから来る家族のためにミヤコ・ホテルに部屋をとりました。一方ヘレンは、要領よくきちんと準備を進めていきました。「母はすでに亡くなっていたので、一人で買い物に行き、自分にぴったりのウェディングドレスを見つけたのでそれを買いました。その後、ブライドメイド(付き添いの友人たち)に着てもらうドレスを選び、フラワーガール(結婚式で花を運ぶ 付き添いの女の子)用のドレスを作りました。そんなに時間はかからず、予定通り準備を終えました」2人は、1954年5月15日、現在の全米日系人博物館に程近い、リトル東京の西本願寺で結婚しました。

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© 2011 Japanese American National Museum

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執筆者について

エスター・ニューマンは、カリフォルニア育ち。大学卒業後、オハイオ州クリーブランドメトロパークス動物園でマーケティングとメディア製作のキャリアを経て、復学し20世紀アメリカ史の研究を始める。大学院在学中に自身の家族史に関心を持つようになり、日系人の強制収容や移住、同化を含む日系ディアスポラに影響を及ぼしたテーマを研究するに至った。すでに退職しているが、こうした題材で執筆し、関連団体を支援することに関心を持ち続けている。

(2021年11月 更新)

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