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一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その10

>>その9

労務契約請負人

ハワイでは、労働者は雇い主と直接耕地で接触する機会があったが、アメリカ本土では労働者が雇い主を知ることなく働く事も多かった。一世労働者は、労務契約請負人を通じて白人雇用主から仕事を貰うのが普通だった。労務契約請負人は、労働者から手数料を取り、他にも生活必需品や様々なサービスを提供して大きな利益を上げていた。

"To Find a Job"、ヘンリー杉本。1950年。Gift of Madeleine Sugimoto and Naomi Tagawa, Japanese American National Museum. (92.97.107)

鉄道会社、製材所、農場、鉱山、魚缶詰工場などでの仕事を斡旋する日本人は20人以上いたと伝えられている。その中でも、日米勧業会社社長でもあった安孫子久太郎は、サンフランシスコを基盤に鉄道会社、鉱山、農場など最も幅広く労働者を提供した。安孫子は他の請負業者の例に漏れず、もともと学生として1882年にアメリカへやって来た。彼の優れた英語力とアメリカ労働市場の深い知識が、白人雇用主との交渉や契約の際に大きな助けとなった。安孫子は、この労働者斡旋の利益を後の大事業に回したのである。(後述)

一般に鉄道関連の労働斡旋業者は、広範囲に渡って事業を展開していた。労働者の送り先も、オレゴン州、アイダホ州、モンタナ州、ワイオミング州にまで及んでいた。鉄道で働くと比較的、高賃金(1903年は1日10時間労働で1ドルから1ドル25セント)を支給されたので、移民労働者にとっては非常に魅力的であった。1907年10月8日にシアトルに上陸した神部利治も、その8日後にはワシントン州ブコダの鉄道建設現場で働き始めた。当時の彼の日記には以下のように書かれている。

1907年10月8日:ワシントン州シアトルでアメリカ合衆国へ上陸
10月9日:仕事を探す 
10月10日:吉野さんが仕事を見つける
10月11日:仕事はまだ見つからない。日本へ手紙
10月12日:ブコダの鉄道工事の仕事を見つける
10月13日:午前10時にシアトルを発ち、タコマ到着
10月14日:タコマよりブコダへ着く
10月15日:今日はアメリカで最初の仕事である
10月16日:よく働く
10月17日:とてもよく働いた1

10月17日を最後に神部の日記は終っている。恐らく激しい労働のため、彼は疲れ果てていたのだろう。それに、10人から15人の労働者がすし詰めの貨車で寝起きする生活では、日記を書くことさえ一苦労だったのかもしれない。

神部を含め多数の一世鉄道工夫は、やがて鉄道建設現場を離れ仕事がたくさんある郡市部へと向かった。後に神部はシアトルでパイオニア果物会社の支配人になり、日本人社会の指導者の一人となった。


ブランケかつぎと独身者社会

1904年5月12日、佐藤豊三郎はサンフランシスコに上陸した。港の移民局で、トラホーム、寄生虫、梅毒の検査に合格した彼はほっと大きな溜息をついた。日本でも同様の身体検査に合格していたが、もしアメリカで問題が発見された場合、ただちに日本に送還されることになっていたからである。その後、移民局検査官は佐藤の所持品を念入りに調べた。特に、アメリカ在住の知人の連絡先、または紹介状などを丹念に探した。このようなものが見つかると移民が事前に労働契約を結んでアメリカへ来たと判断され、アメリカ国内法違反として入国拒否の処置がとられたのである。しかし、佐藤の柳行李からは戸籍謄本や卒業証書、その他の身の回り品以外は何も出てこなかった。2

第一の関門を突破した21才の佐藤は、自分の将来について少し楽観的になった。まだ、仕事のあてはなかったが、労働者斡旋所や契約請負人を通じてすぐ見つかるはずであった。それに日本人旅館に行けば、手数料2ドルで仕事を紹介してくれるのも知っていた。

佐藤が1929年から死ぬまでの4年間に受け取った手紙を見ると、彼が「ブランケかつぎ」として働いていた事がわかる。「ブランケかつぎ」とは、収穫期に応じて毛布(ブランケット)をかつぎ、地方の農場を廻って働いていた季節労働者のことである。3 彼はそんな生活を詩に表現している。

暮れゆく灯がないベットに入る
藁のベットに眠る藁の香り4

以下は、佐藤が親類や友人から受け取った手紙の一部である。(全て原文のまま)5

1929年(昭和4年)2月11日付:長尾ギョウスケ(東京)より佐藤豊三郎(カリフォルニア州チコ)
「君の母上は大鰐の湯やで楠美久松夫妻と湯舟で一所になり色々米国の話が出て...母上曰く豊三郎ハ余リ正直すぎて人に騙されそうなやつであった。然し自らが生きてる中に帰へれバ生活の基本の田地も幾らか分けさしてもやれるし、彼を困らせずすむが早く帰って顔をみせて呉れれバよい云々。由で僕は僕の様に仮に生きても卒中にでもあって訳が分からなくなった後の親に会ったのでは仕方がないから旅費が出来たら早速帰国して御達者な母親を見るがよい、との主旨でかいたものである...」

1929年(昭和4年)11月18日付:佐藤サイチ(日本在住の兄)より佐藤豊三郎(カリフォルニア州チコ)
「母は八月十九日午后0時」...眠るが如く昇天されました。火葬後...葬式を村でしました。たくさんの会葬者はありました...何時でも帰って来なさい。皆で働くと食べられます。帰るなら妻を迎へる関係上早いほうはよいと思います。」

1931年(昭和6年)1月17日付:長尾(東京)より佐藤(カリフォルニア州オークランド)
「...君は毎日働いて着々蓑底を重くして居様が、打つ、呑むとその方が心配でありません。悪友に導かれん様御用心しなさい。...先回言った様に多い程よいが少くとも旅費に外の二千円ハ持参して来る様にせ(ね)ばいけません。...技術ハ(一)アスパラガスの耕作を覚へ込めんか、(二)apple ciderヲ完全に作るを覚へられんか、(三)Bacon & Ham & Sausageを作る事を覚へんか。」

1931年(昭和6年)9月18日:片井(ロスアゼルス)より佐藤(サンフランシスコからアラスカ・ブリストルベイへ回送)
「僕も一所にアラスカへ行キタイカラ早速ソノ運動ヲシテ快報ヲ返電アリ度シ。...出桑(サンフランシスコ=桑港)ノ日、出帆ノタイム、帰米ノ予定、普通人ナスジョーブ(仕事)トシテ、コノシイズン(季節)の働き高、先に貰ラエル オドバンス(前払い)ノ程度大至急間ニ合ウナラタノムゼ。」

1932年(昭和7年)6月20日付:松森ケイゾウ(カリフォルニア州バーリンガム)より佐藤(アラスカ)へ
「(アラスカからの)帰りには酒の肴に塩さけでも持来られよ。余は酒を用意して置く。」

1933年(昭和8年)1月7日付:野々口(アラスカ労働請負業)より佐藤(カリフォルニア州ローダイ)へ
「...この業界不況の折り、貴兄も失業者の一人と□り居る由御同情申し上げ...チャッキ(小切手)五ドル同封申上し旨御受取り乞うなり。書中アラスカ前金云々と有□□□□本年度より会社よりは金融絶体不可能に付き前金付きボーイ(労働者)は□□□不可能の由、前以って御承知乞うなり。」

1933年(昭和8年)3月30日付:嶋(カリフォルニア州パロアルト)より佐藤(ストックトン、ダイヤモンドホテル)へ
「...病気の由さぞ御難儀の事と察します。実際知り人の無い處で病んで金がないと困る。僕自身にも是れ迄色々経験が有る故 尚更同情に堪へん。...僕の様に働いて居る者は側の人から見れば金の都合が何時でも出来ると思はれ他の友人達からも度々金銭上の相談されて困る。現に今も僕と同郷の者で二十年来の知人が長い間仕事口が得られず桑港の一日本人旅館から止宿も断れ僕がヘルプして居る。右の様な次第で君も大へん困って居ることと思が今何んとも出来ん。然し成るべく早く都合の出来しだい少しでも送る。」

1933年(昭和8年)4月3日付:下山栄太郎(サンフランシスコ)より佐藤(ストックトン)へ
「...いやはやこの世界不況はいふだけやボだが...僕のシンブン社なんかはその後給料ナシといふ...君の苦境は同情の限りであるがうそれとしても自分の境遇を容歓していい句を生むやうにしたまへ。そのどん底からこそ金玉の句が生まれてくるのだから...」

1933年(昭和8年)4月5日付::嶋(パロアルト)より佐藤(ストックトン)へ
一日も早く御全快を祈る

佐藤豊三郎が何故渡米したかは謎である。英語の勉強をするつもりできたのかも知れないし、あるいは青森の家族のため金儲けするつもりだったのかも知れない。しかしそれがいかなる理由だったにせよ、日本から持ってきた僅かばかりの品々と家族や友人からの手紙だけが、彼の29年に及ぶアメリカ生活で残るものになろうとは考えてもいなかっただろう。1933年5月15日、佐藤はカリフォルニア州フレンチキャンプにおいて貧困のなかで一人淋しく死亡した。

郷関を出でて錦も夢となり6

一世労働者の間には賭博がはびこり、そのため無一文になり故郷に錦を飾るという目的が果たせなくなったものも多かった。1918年6月に各地の日本人会が行った調査によると、日本人労働者が一年間に賭博場で失う総額は300万ドルに達することが明らかとなった。あるいは佐藤豊三郎も、友人の長尾がアドバイスしたようにできるだけ大金を持って帰るため、一攫千金を夢見て毎日の稼ぎを賭博に注ぎ込んでいたのかも知れない。

佐藤のような孤独な独身労働者にとって、賭博は数少ない楽しみの一つであった。始めはアメリカ本土へ来る日本人女性がほとんど居なかったので、20世紀に入る頃、統計では男性24人につき女性は1人しかいなかったのである。7 また、初期のアメリカ在住日本人女性は多くが売春婦であった。彼女たちは貧困に苦しむ農村から売られたり、誘拐、あるいは騙されてアメリカに連れて来られたのである。8

1910年頃からたくさんの日本人移民労働者が、故国から妻を呼び寄せるようになった。結婚のため日本へ一時帰国する男達もいたが、経済的にそれが難しい者の中には、既婚者の妻と駆け落ちする例もあった。そのような場合、残された夫は邦字新聞に賞金付き捜索広告を出したり、日本人会に捜索を依頼し蒸発した妻の居場所を捜した。日本人移民は西部各州に分散していたが、そのつながりは各地日本人会などを通じて非常に強かったので、駆け落ちしても捕まることが多かったのである。

その11>>

注釈:
1. この日記は全米日系人博物館コレクションの一部である。
2. 佐藤豊三郎コレクション(カリフォルニア州サリナス、一世パイオニア博物館所有)
3. 季節労働者についての詳細は、Ben Kobashigawa訳、History of Okinawans in North America(ロサンゼルス、1988)を参照。
4. 佐藤豊三郎よりオークランド仏教会畑開教師への1931年9月18日付書簡。
5. これらの書簡は、サリナス仏教開の竹村良明開教師への1931年9月18日付け書簡。
6. 柳華。伊藤一男著、「北米百年桜」(シアトル、1969)443ページ。
7. 1900年の時点で、日本人移民の男女比率は4対1であった。また、全人口の30パーセント以上は既婚者であった。
8. 詳細は、Yuji Ichioka著、“Ameyuki-san: Japanese Prostitutes in Nineteenth Century,”  Amerasia Journal (ロサンゼルス、1977)を参照。

*アメリカに移住した初期の一世の生活に焦点をおいた全米日系人博物館の開館記念特別展示「一世の開拓者たち-ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924-」 (1992年4月1日から1994年6月19日)の際にまとめたカタログの翻訳です。

© 1992 Japanese American National Museum

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