ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2011/10/20/alberto-matsumoto/

日本社会と日系人の懸け橋として活躍するアルベルト松本さん ―その1

「根性の人」。そんなイメージを抱かせる人である。1962年にアルゼンチンで生まれた日系二世。名門、サルバドル大学政治国際関係学部を1988年に卒業した。学生時代にマルビナス戦争(フォークランド紛争)に従軍し、英軍と戦った経験もある。

1990年に国費留学で来日、横浜国立大学で修士号を取得した。その後旧労働省の外郭団体の外国人相談員を務め、いまはスペイン語の通訳・翻訳、国際コンサルタントとして日本社会と日系人コミュニティの橋渡し役を務めている。「日本のシステムの中でどういうところを狙えば自分たちが注目されるか、自分たちが少しでも活躍し、日本の社会から評価されるところを考えろ」。アルベルトさんは日本で暮らす日系人の同胞によくこう言う。そして、「賢く生きなければならない」と説く。アルゼンチンから日本に生活の場を移し約20年が過ぎた。二つの文化、二つの祖国を持つアルベルトさんに自らの生き方を含め「在日日系人の20年」を語ってもらった。

* * * * *

◎南米の日系人社会は

――まずはアルベルトさんが生まれ、育ったアルゼンチン、そして南米の日系人社会について、お話し下さい。

アルベルト: アルゼンチンは南米でもちょっと特殊です。白人社会で、スペイン人、イタリア人が8割を占めています。特に首都のブエノスアイレスはヨーロッパ系が多いのですが、僕はそういう環境で育ったのです。そして、その社会に溶け込まなければ生きていけませんし、成長できないのです。移民した日本人は互いに助け合うため日系人社会をつくりますが、地元社会に溶け込まなければ事業も拡大できませんし、尊敬もされません。ブラジルやペルーも社会の構造は少し違っていますが、移民国家という意味では同じような試練に挑戦してきたと思います。

私はブエノスアイレス郊外にあるかなりしっかりした日系社会の地域で育ちました。学校のクラスの3割ぐらいが日系人でした。日系人とは日本語でしゃべっていましたが、その結果当初はスペイン語がおろそかになってしまったのです(成績があまり良くなかったのです)。小学校から留年制度(落第制度)みたいなものがありますから、正常に進学するためには相当勉強しないといけません。国立大学に入っても卒業できるのは2割そこそこで、私立でも3割から4割ぐらいですね。大学を中退しますと、「大学中退」とは見てくれませんので、ただの高卒扱いになります。

――そういう人たちにとって、日本へのデカセギは魅力的に見えますか。

アルベルト: それはそうでしょうね。1980年代後半から90年代前半にかけては、南米の経済が非常に悪い時期でした。あのころは、日本への憧れというより、どんなことをしてでも日本に行って、少しでも稼ごう、という人が多かったと思います。日本の輸出産業も人手不足でした。僕の記憶では、当時、ブラジル、ペルーでも平均の月収が150ドルにもなりませんでした。100ドル以下の国もありました。1万円そこそこですよ。それが日本へ行けば30万円は稼げましたし、当初、日本に来た人は、トヨタ、日産、パナソニックなどの(下請け)工場で残業代を含め50万円近く稼いでいたものもいましたね。

◎日本で1年働けば中古マンション2軒

――日本へ行きたがるのもわかりますね。

アルベルト: あの時点では2、3年日本で働けば、国に帰って家と車が買える状況でした。10年、15年間働いても、得られないものを……。毎月50万円稼いで、質素な暮らしをして30万円貯金すれば1年間で400万円近く貯めることもできたのです。それだけのおカネがあれば、当時ですとブエノスアイレスでも2DKの中古マンションが2軒は買えましたね。そんな状況でしたから感覚がマヒしてしまったものもたくさんいましたし、中には大学を中退して日本に来た日系人もいます。日本でいえば東大にあたるブエノスアイレス大を辞めて日本に来た日系人もいますよ。また、稼いだ資金をすべて浪費してしまった者も多くいましたね。

――デカセギの初めのころは、日系人の多くが母国に帰ったのですか。

アルベルト: 90年代半ばごろぐらいから、南米諸国の経済もだんだん良くなるのです。インフレが鎮静化して経済が安定してくるのです。ただそれに伴って物価も高くなりました。日本から毎月仕送りする200ドルでは家族が暮らしていけないということになり、もっと稼ぐために妻子を呼び寄せて共働きする人も増えるのです。日本が生活の拠点になっていくのです。日本で結婚する人も出てきます。しかし、物価が高い日本で子ども2人の家族になりますと、夫婦で働いても家賃や子どもの教育にはかなりのおカネがかかるということがだんだんわかるようになるのです。

――日系人の間で意識が変わってくるのは来日何年目ぐらいからですか。

アルベルト: それは、人それぞれだと思いますが、私の場合は来日してはじめの2、3年は何もわからない状態でした。国費留学生でしたし、日本国から奨学金を受給し、大学の学費も国が払ってくれていましたし、病気をしても国民健康保険に入っていましたのでまったく困らない待遇でした。だから日本の社会のことはいいところだけをみて何もわからないでいたのです。他方、デカセギの人は、仕事は大変のようでしたが、工場とアパート、アパートと工場を往復する毎日でした。時々筑波大周辺の工場から通訳の依頼がありましてそれで彼たちの生活を知るようになったのです。おカネをためるために、とにかく仕事、仕事でしたし、日本社会との接点はほとんどない状態でしたね。それに派遣会社もそれをあまり望んでいなかったように思います。

その2>>

*本稿は『多文化情報誌イミグランツ』 Vol. 4より許可を持って転載しています。

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執筆者について

1985年生まれ。青森県出身。2008年国際基督教大学卒。09年米コロンビア大学ティーチャーズカレッジの修士課程(教育経済学)修了。在学中より移民問題に興味を持ち、日米移民の教育問題などを研究。10年より民間会社に勤めながらフリージャーナリストとしても活動。

(2011年10月 更新)

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