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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

幻の文芸誌『收穫』-その1/4

はじめに

1930年代の半ばに刊行された同人誌『收穫』は長い間、幻の文芸誌だった。創刊当時から注目されていて、『加州毎日新聞』『羅府新報』などの文芸欄には『收穫』が発行されるたびにその知らせの記事が掲載され、それに対する批評もしばしば載せられている。

日本人移民に関する歴史書にも、その文学の頃には決まってこの雑誌への言及がある。『在米日本人史』(1940)に「一九三六年には林田、加川、伊丹、上山らにより北米詩人協会が設立され雑誌『收穫』が発行された」と記されている。この言及のことばがほぼそのまま受け継がれて『收穫』が『南加州日本人史後編』(1957)、『米国日系人百年史』(1961)、加藤新一『アメリカ移民百年史』(1962)などで紹介されている。

また外川明が「南加詩壇回顧(その二十)」(『南加文藝』第20号、1975)の中でこの雑誌を取り上げ、矢野喜代士、松田露子など同人たちの作品を紹介している。山城正雄と松江久志は『收穫』の同人たちの思い出と彼らの人間関係を明らかにし、この雑誌の意義にも触れている(『羅府新報』1993年6月1日、9日、26日)。

このように『收穫』がその日系文学史における意義を十分認められ、よく言及されながらも長い間その全貌が明らかにならなかったのは、雑誌そのものが日米開戦直後の立退きのために散逸してしまい、読むことができなかったからである。周知のように、立退き者に許された荷物の量はそれぞれが持てるだけの量であり、普通はバッグ二つであった。したがって携帯するのは生活必需品のみとなり、『收穫』を含め、戦前に発行された多くの書物は失われてしまったのである。

この度、関係者のご厚意により『收穫』全号が揃うこととなったが、これは日系アメリカ文学の研究上、大きな意味を持つものである。これから本格的な『收穫』論が出ることを期待して、この雑誌の内容や特徴、意義などについて解説を試みることとしたい。

1. 1930年代の日系社会と日系文学

『收穫』が刊行された1930年代は日系社会が様々な問題を抱えていた時代であった。まず日米関係の緊張がある。1931年、満州事変が起こり、日本の侵略拡大にアメリカは警戒心を強め、1937年に日中戦争が始まると日米間に緊張が高まって、それが1941年に始まる太平洋戦争へと繋がっていく。このような日米関係の悪化が日系社会を微妙な難しい立場に立たせた。また経済的には1929年に始まった大恐慌のために、日系人は主要な産業である農業だけでなく、商業などでも厳しい経営を迫られ、社会的に白人社会になかなか受け入れてもらえない二世にとって就職が一層困難になった。

他方、日系社会においては二世が成長し、世代間の乖離が明らかになりはじめていた。1935年の一世の男性の平均年齢はおよそ42歳、女性は35歳であり、二世の平均年齢は15歳であったといわれている。アメリカ式教育を受けた二世は、家庭や地域社会で一世の文化的影響を強く受けながらも独自の考えを持ち活動しはじめた。年長の二世たちは、彼ら独自の要求を掲げて1929年に全米日系市民協会を結成し、1930年に第一回全国大会を開催している。満州事変に関しては一世と二世の間に意見の相違が見られた。文化面でも二世は独自の文学創造を目指して文芸誌を創刊している。ことばの問題も一世と二世の間の意志疎通の上では不利に働いた。世代間の乖離は世代交代の始まりでもあった。

帰米二世の問題が顕在化するのは、彼らの数が増える1930年以降である。アメリカで生まれ、幼少のとき日本へ送られて教育を受け、再びアメリカへ帰った彼らはリベラルな少数の人々を除き、強い日本支持派が多かった。この点、親の考えと近かったが、長い離別の後で再会した親との関係が難しい場合もよくあり、ことばの問題で二世との意志疎通は断絶しがちであった。

日本語による日系アメリカ文学が生まれたのは1903、4年頃のシアトルである。その後、シアトル文壇の推進者であった翁久充(1888~1973)がカリフォルニアへ移住したこともあって、文学活動の中心はカリフォルニアへ移り、サンフランシスコやロサンゼルスなどでは各種の文芸結社が設立され、日系新聞の文芸欄は賑わった。初期の作品は俳句、短歌などの短詩型文学が中心であり、日本と日本の文学を意識して書かれるものが多かった。一世文学の特徴を西村良雄は「嘆息」と「慰安」としている。(『收穫』第五号)。

しかし、熱心に「移民地文芸」の創造を提唱し、実践に努めた翁久充のような文学者もいたことを忘れてはならない。移民地の生活に根差し、日本の文学から独立した移民地独自の文学、そして「新しい社会の建設」という使命を持つ文学、これが翁の目指したものであった。翁の『移植樹』(1923)は日系日本語文学における記念すべき最初の短編集である。

1930年代の日本語文学の特徴はその担い手が今までの一世から帰米二世(および年少の一世)へと変わりつつあったことである。有力な一世歌人の伊勢田初枝、一世詩人の下山逸蒼が亡くなっている。しかし帰米二世が一世を離れて独自に文学活動を行なうことはほとんどなく、帰米二世が彼ら独自のテーマを持つ作品を本格的に書きはじめるのは太平洋戦争が終わってからのことである。山崎一心は『アメリカ文学集』(1937)の中で一世の文学の終わりを強く意識し、この文学集を一世の「墓標」として編み、二世の英語文学に期待を寄せている。

二世による日系英語文学は1920年代後半に生まれ、1930年代に成長した。作品の発表機関は主としてサンフランシスコとロサンゼルスで発行されていた日系新聞の英語文芸欄であるが、同人文芸誌『レイメイ』(Reimei)(1931~1933)と『ギョウショウ』(Gyo-sho)(1935年頃)、作品集『リーヴズ』(Leaves)(1936年頃)、文化文芸誌『カレント・ライフ』(Current Life)(1940~42)などが二世自身の手によって刊行されている。積極的な文芸活動であったといえる。彼らの作品は青春にかかわるテーマが多く、優れた短編であるタロウ・カタヤマ「春」(1933)やワタル・モリ「バスローブの女」(1937)のように社会問題や人種問題を扱う作品は少ない。

1930年代において最もよく知られていた二世作家はトシオ・モリ(1910~1980)である。彼は作品を日系社会の外の雑誌に発表するように努め、日系社会の人々の日常生活における喜怒哀楽を通して人間の持つ普遍的な姿を描きだそうとしている。ウイリアム・サロイアンによって認められ、彼の序文を得て、戦後作品集を出版した。

その2>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)へ掲載。ディスカバー・ニッケイへの転載にあたり、加筆・修正したものです。

© 1998 Fuji Shuppan

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このシリーズについて

日系日本語雑誌の多くは、戦中・戦後の混乱期に失われ、後継者が日本語を理解できずに廃棄されてしまいました。このコラムでは、名前のみで実物が見つからなかったため幻の雑誌といわれた『收穫』をはじめ、日本語雑誌であるがゆえに、アメリカ側の記録から欠落してしまった収容所の雑誌、戦後移住者も加わった文芸 誌など、日系アメリカ文学雑誌集成に収められた雑誌の解題を紹介します。

これらすべての貴重な文芸雑誌は図書館などにまとめて収蔵されているものではなく、個人所有のものをたずね歩いて拝借したもので、多くの日系文芸人のご協力のもとに完成しました。

*篠田左多江・山本岩夫 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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