ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2011/1/3/issei-pioneers/

一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その1

1. ハワイへの旅

1885年2月8日、日曜日。夜明けとともにハワイ行き汽船シティ・オブ・トキオ号の乗船客たちの気持ちは高ぶっていた。遂に陸地が見えたのである。坂チカとその夫庄七は、二人の息子エイゾウとヨシタロウを起こした。坂一家がデッキに上がると、ホノルル港を取り囲む青々とした山々が次第に水平線上に浮かび上がってくるのが見えた。

この船の疲れ果てた旅人たちが日本を出発したのは、ほぼ2週間前のことだった。坂庄七と妻のチカは、横浜でハワイの砂糖きび耕地で3年間働く労働契約書に署名していた。庄七と同船の男達は、月給9ドル(女6ドル)、食費6ドル(女4ドル、子供1ドル)、住居、医療費、ハワイまでの3等船室費を保証されていた。

"Going to America" by Henry Sugimoto 1980. Henry Sugimoto Collection, Japanese American National Museum (92.97.105)

また、シティ・オブ・トキオ号には、日本とハワイ両政府間で官約移民労働者募集責任者を務めたロバート・ウォーカー・アーウィン在日ハワイ国総領事も同船していた。彼は、日本からハワイへの新しい移民事業に熱意を持ってあたっていた。というのも、彼は成人男性移民一人につき5ドルの手数料を得ていたからである。シティ・オブ・トキオ号には682人の男性が乗船していたので、アーウィンはこの時点ですでに3,410ドルの利益を得ていたことになる。彼はこの後、9年間で2万8千人を超える官約移民をハワイに送ったのである。1

アーウィンは、日本国内に日本人の海外契約労働への批判があったことを十分承知していたはずである。当時、1868年にハワイに渡った日本人労働者たちの悲惨な運命はよく知られていた。彼らは、靴工、木こり、床屋、養蚕業、陶工、侍などの154人の男女からなる「元年者」(明治元年にハワイに渡った者)と呼ばれる人々で、砂糖きび耕地での過酷な労働には耐えることができなかった。そのため、すぐに彼らから待遇への不満や失望の声が続出し、明治政府による調査を経て、結局、ハワイへの労働移民の渡航は一時中止された。2

アーウィンは新しい日本人移民募集にあたって、「元年者」の失敗を繰り返さぬために、まず親しい友人の井上馨外務大臣と益田孝三井物産社長に相談をもちかけた。井上と益田は、その住民が「遠くに出かけることに抵抗も恐れも感じない」山口県と「穏健で法に従う」広島県でハワイ渡航希望者を募集することを勧めた。その結果、シティ・オブ・トキオ号上の移民の68%(648人)は、山口、広島両出身者で占められることとなった。これ以降の日本人移民もこれら両県を中心に、熊本、福岡、沖縄などの出身者が多かった。

ハワイ渡航の前、移民たちはその適正を厳しく審査されていた。日本政府はアメリカにおいて中国人がすでに差別的、屈辱的な待遇を受けていたことを知っていて、西洋諸国に日本人が同様の扱いを受けないように、良いイメージを与えようと必死になっていたのである。外国人は、移民たちを通じて日本を見るということを考慮し、「適正のある者」がアメリカへ渡るように留意していたのである。3

実際、1891年にハワイ移民局の代表は、内務相チャールズ・スペンサーに次のような手紙を出している。

「(日本の)当局者は、人格が良く、法を遵守する勤勉な者にのみ、ハワイへの渡航許可を出すように注意を払っている。ここにはたくさんの日本人が来るが、日本での厳しい審査のためか乱暴者はごく少数しかいないし、法と秩序を犯すようなものは一人もいない。」4

日本人移民の大半は農民であった。ハワイ移民局はアーウィンに対して、「いかなる場合においても、都市の住民、あるいは農業以外の職に就いたり、訓練を受けている者から募集してはならない。」5と言い渡していた。

アーウィンはホノルル当局から女性は全体の25%にどどめるように支持されていたため、彼が選んだ官約移民の80%は若い男性だった。坂一家は、最初の旅に選ばれた994人の一員であることを幸せに思っていた。当初、ロバート・アーウィンと日本政府は600人程度の応募者を予想していたが、最終的には、2万8千人もの応募者があったのだ。

坂一家のほかに、飯田竹蔵と妻ヒサエ、息子シュンタロウ(6歳)、テルジ(2歳)を含め全部で76家族が選ばれていた。船がハワイの港へ着くと飯田ヒサエは、ほっと安堵の息をついた。彼女は臨月を迎えており、経験から3人目の誕生も間近であることを感じていた。他の乗客が検疫を受けに移民局に向かうなか、ヒサエはクィーン病院に急送され、翌日そこで女児を出産した。女児誕生のニュースは、ハワイ国カラカウア王と妹君リディア・カマカエハ・パキ王女(後のリリウオカラニ王女)のもとにも届けられ、二人はヒサエと新生児を見舞った。そのときカラカウア国王は、込み上げる喜びを隠さなかった。「祖先を同じくする人種」により王国の人口を増やそうという彼の夢が実現するかにみえたからである。幸先の良い飯田家では王女に敬意を払い、女児をリディアと名付けた。

この頃、ハワイではヨーロッパ人やアメリカ人がもたらした病気により、もともと50万人を超えていた人口が1866年には6万人にまで減少していた。カラカウア王は、日本人がハワイ経済に「すんなり同化」し、急成長する砂糖産業が必要としていた膨大な労働力を提供できるものと期待していた。

「我が国の栄光にはかげりが見え始めている」と国王は明治天皇にあてた書簡で悲しみを訴えた。「我が国には西洋人が増えすぎ、その影響は目に余るものがある。(中略)我々が独立国でいられる日も、今では数えるばかりになってしまったかのような不安に襲われている。」6この僅か8年後、ハワイの君主政治は終わりを告げ、まもなくハワイ経済は完全にアメリカ人やイギリス人の入植者の管理下に置かれることとなるのである。

カラカウア国王は、ヨーロッパ列強とアメリカの進出を食い止めようと、明治天皇を首長とするアジア各国の連合体形成を提案した。さらに日本との関係を強化するために、6歳になる姪のカイウラニ王女と15歳になる日本の山階宮定麿殿下の結婚を申し入れた。しかし、明治天皇は熟考の末、丁重にこの提案を断った。

一方でハワイの砂糖きび耕地経営者の影響力は、急速に国王をも凌ぐほどになった。「グレート・マヘレ」と呼ばれる土地制度改革によって、一般庶民や外国人にも私的土地所有権が認められるようになり、白人耕地主にも土地所有への道が開かれたのである。加えて、1876年の互恵条約によりハワイ産の砂糖が非関税でアメリカ本土へ輸出できるようになった。アメリカでは、カリフォルニアのゴールドラッシュに伴う人口急増と南北戦争(1861-1865)による混乱が、ハワイからの砂糖の需要を高めていた。そのため、1870年から1890年の間に砂糖の生産高は9千トンから30万トンに急増していた。その砂糖産業の急成長を脅かしていた唯一の問題は、労働力不足であった。

ハワイでは、1850年代に中国人が最初の外国人労働者として導入された。やがて、中国人の数が増え、彼らがより良い仕事を求めて砂糖きび耕地を離れるようになると、次にポルトガル人が集められた。これにより、中国人労働力に頼りすぎているという当初の白人耕地主の不安は一時的に和らいだが、ポルトガル人労働者の賃金があまりにも高かったため、彼らに代わる新たな低賃金外国人労働者を探すようになった。

その後、集められた労働者のほとんどは中国、日本、韓国、フィリピンなどのアジア諸国からやって来た。加えて、プエルトリコからも数千人、またドイツ、ノルウェー、ロシアからも2、300人ほどの労働者移民が来た。耕地主は、故意に様々な国からの労働者を同時に雇用し、出身国別のグループに分け、そのグループ同士を競わせることで労働賃金を抑えたのである。実際、耕地主の会報であった「プランターズ・マンスリー」は、次のように記している。「国籍の異なる労働者を雇用することで、労働者達が団結する危険が少なくなり、その管理がやりやすくなる。」7

さて、1885年に日本人官約移民が始めてハワイに上陸したとき、「デイリー・パシフィック・コマーシャル・アドバイザー」紙は、彼らの到着を「ここ何年間にハワイで起こった最も重要な出来事である」と報じた。この記事を書いた記者はその時まで日本人を見たことがなかったのか、「多くの日本人、殊に女性は白人同様に見える。また非常に清潔でもある」と驚いていた。

官約移民たちは移民局一時収容所から出るとすぐに、5つの島々に散在する砂糖きび耕地に割り当てられた。8一般的に、同県人は同じ耕地に行くことが多かった。坂一家はカウアイ島に、そして飯田一家はハワイ島に送られた。飯田夫妻の娘リディアは、6ヵ月後キラウェア耕地で死亡した。

仕事が始まると、耕地での暴力や不当な扱いに関する移民たちの苦情がすぐに表面化した。マウイ島のパイアでは官約移民到着の僅か1ヵ月後に、日本人労働者を手荒に扱うハワイ人牛使いへの処罰を拒んだ耕地に対する抗議のストライキが発生した。またハワイ島パパイコウにおいても、耕地経営者が時間外労働への賃金支払いを拒んだことから、日本人労働者がストライキを行った。このような苦情があまりにも多かったため、日本政府は井上馨外務大臣の養子にあたる井上勝之助を実情調査のため派遣した。

ハワイ政府の首相兼外相であったウォルター・マリー・ギブソンは、井上に「当地で就業中の約720人の日本人の一部から出ている苦情の数とその性質は、今までハワイ政府が関わってきたあらゆる移民問題や雇用問題の中で最も深刻なものである」9と語った。そして、ギブソンはハワイ政府が「日本政府の要望」をかなえるよう努力すると約束した。

このように、たびたび起こった散発的な労働紛争は、1909年に勃発した日本人大ストライキの前触れであったが、最初のうちは、耕地主は日本人労働者を歓迎していた。耕地主や日本人移民労働者から好意的な報告を得たロバート・アーウィンも得意になった。1886年4月9日、アーウィンは井上外相に次のような手紙を出している。「日本人の移民は大成功である。彼らは皆幸せで待遇も良い。全て(あるいはほとんど)の者は、大変勤勉で倹約家でもある。日本人農民の真の姿は質素な働きものであるから、耕地主はたいてい日本人労働者に満足している。」10

その2>>
 
注釈:
1. Roland Kotani著、The Japanese in Hawaii: A Century of Struggle (ハワイ、1985)、9-12ページ。
2. Patsy Sumie Saki著、Japanese Woemn in Hawaii: The First 100 Years (ハワイ、1985)、17-26ページ。
3. 日本の米国移民政策とその影響についての詳細は、Mitziko Sawada著、 “Culprits and Gentlemen: Meiji Japan’s Restriction of Emigrants to the United States, 1891-1909,” Pacific Historical Review, Vol. 60, No.3. (August 1991) を参照。
4. Paul NeumannよりCharles N. Spencer (内務大臣)への1891年3月18日付書簡。詳細は、Alan Moriyama著、Imingaisha: Japanese Emigration Companies and Hawaii 1894-1908 (ホノルル、1985)、18ページを参照。
5. Lorrin A. Thurston (内務大臣兼移民局長官)よりIrwinへの1887年9月8日付書簡。詳細、Moriyama、前掲書、16ページを参照。
6. James H. Okahata著、A History of Japanese in Hawaii (ホノルル、1971)76ページ。
7. Planters Monthly, 2, No.11(November, 1933):177ページ、245-247ページ。詳細は、Ronald Takaki著、Pau Hana(ホノルル、1983)、24ページを参照。
8. ハワイには、18の砂糖きび耕地があった。そのうちカウアイ島とマウイ島にそれぞれ6つの耕地があり、ラナイ島とオアフ島に一つづづあった。
9. 王堂フランクリン、篠遠和子共著、「図説ハワイ日本人史、1885-1924」(ホノルル、バニース・パウアヒ・ビショップ博物館、1985)196ページ。
10. IrwinよりInoueへの1886年4月9日付書簡。詳細は、Moriyama、前掲書、23-24ページ参照。


*アメリカに移住した初期の一世の生活に焦点をおいた全米日系人博物館の開館記念特別展示「一世の開拓者たち-ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924-」(1992年4月1日から1994年6月19日)の際にまとめたカタログの翻訳です。

© 1992 Japanese American National Museum

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執筆者について

アケミ・キクムラ・ヤノは、カリフォルニア大学ロサンゼルス校アジア系アメリカ人研究センターの客員研究員です。カリフォルニア大学ロサンゼルス校で人類学の博士号を取得しており、受賞歴のある作家、キュレーター、劇作家でもあります。著書『過酷な冬を乗り越えて:移民女性の人生』で最もよく知られています。

2012年2月更新

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